kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

コースは不完全か?

コースの悪口ではありません。

 

あれはあれで、高度に専門的で普遍的な役割を果たしているものです。

 

同じものを書こうったって、とてもできるものじゃない。

 

少なくとも人間には無理な代物だと思っています。

 

これは弱点とは決して言えるものではないが、しかしコースにはないが私たちが求めているものがある。

 

私たちは成熟していくために、特定の具体的なステップを経る必要があります。

 

コースは唯一、そのステップについての言及に欠けます。

 

こんなときどうすればいいのか、どう考えれば良いのか、コースはその辺りのことには一切触れておりません。

 

だから私を含めた学習者たちは、そこでモヤモヤしたりします。

 

痒いところに手下届かないのです。

 

ではコースは不完全か?

 

私たちのニーズから見ればその通りでしょう。

 

しかしハッキリと言えば、コースは目的に対して完璧なものです。

 

なぜならコースは、具体的な物事に言及することにより、それを実在のものとさせないからです。

 

テキストにはこのようにあります。

 

愛は恐れを見過ごすことしかできず、恐れは愛を見ずにいることしかできない。

 

あなたのささやかな役割は、聖霊に犠牲という考えを丸ごと与えてしまうことだけである。

 

復習となりますが、赦しとは、幻想を通り過ぎて聖霊の目と耳、心(これは比喩です)と繋がることです。

 

つまり罪悪にまつわるすべての幻想を一切考慮しない、ということです。

 

私は今日、ある人間関係で思い悩んでいました。

 

しかし聖霊にそれを預けようとしたとたんに、心の中からその問題が一瞬にして消え去ってしまったのでした。

 

跡形もなく、消滅してしまったのです。

 

問題を実在させることは、罪を座視することに等しい。

 

つまり消えてしまったということは、問題という罪悪の象徴を見ていては、赦しという真の解決はありませんよ、ということだったと思っています。

 

面白いですね。

 

こういったことがあるから、私はコースから離れられません。

 

「罪悪の使者たちは放っておきなさい、彼らは嘘しかつかないのだから、あなたが耳を貸す価値はない。」

 

と、聖霊に言われているように思います。

 

具体的なニーズとは、不足を暗示するものです。

 

だからそれに答えてしまっては、コースは意味の大部分を大きく失うことになるでしょう。