コースは不完全か?
コースの悪口ではありません。
あれはあれで、高度に専門的で普遍的な役割を果たしているものです。
同じものを書こうったって、とてもできるものじゃない。
少なくとも人間には無理な代物だと思っています。
これは弱点とは決して言えるものではないが、しかしコースにはないが私たちが求めているものがある。
私たちは成熟していくために、特定の具体的なステップを経る必要があります。
コースは唯一、そのステップについての言及に欠けます。
こんなときどうすればいいのか、どう考えれば良いのか、コースはその辺りのことには一切触れておりません。
だから私を含めた学習者たちは、そこでモヤモヤしたりします。
痒いところに手下届かないのです。
ではコースは不完全か?
私たちのニーズから見ればその通りでしょう。
しかしハッキリと言えば、コースは目的に対して完璧なものです。
なぜならコースは、具体的な物事に言及することにより、それを実在のものとさせないからです。
テキストにはこのようにあります。
愛は恐れを見過ごすことしかできず、恐れは愛を見ずにいることしかできない。
あなたのささやかな役割は、聖霊に犠牲という考えを丸ごと与えてしまうことだけである。
復習となりますが、赦しとは、幻想を通り過ぎて聖霊の目と耳、心(これは比喩です)と繋がることです。
つまり罪悪にまつわるすべての幻想を一切考慮しない、ということです。
私は今日、ある人間関係で思い悩んでいました。
しかし聖霊にそれを預けようとしたとたんに、心の中からその問題が一瞬にして消え去ってしまったのでした。
跡形もなく、消滅してしまったのです。
問題を実在させることは、罪を座視することに等しい。
つまり消えてしまったということは、問題という罪悪の象徴を見ていては、赦しという真の解決はありませんよ、ということだったと思っています。
面白いですね。
こういったことがあるから、私はコースから離れられません。
「罪悪の使者たちは放っておきなさい、彼らは嘘しかつかないのだから、あなたが耳を貸す価値はない。」
と、聖霊に言われているように思います。
具体的なニーズとは、不足を暗示するものです。
だからそれに答えてしまっては、コースは意味の大部分を大きく失うことになるでしょう。