kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

この世界では、愛でさえ完全ではない

キリストは愛を説きました。

 

それだけをしなさいと言いました。

 

しかしそれが万能だとは言いませんでした。

 

 

私たちは、どのような場面であっても愛こそが唯一の答えだと聞かされて生きてきた。

 

直接そのように教わったことがなくとも、なんとなく、社会の風潮として、あるいは知的階級の高い人たちの間での不文律のようなものとして、それは語られてきた。

 

そしてコースでも、赦しこそが唯一の答えであり、それは神の声の代弁者の意思だとも説明されている。

 

それに間違いはないでしょう。これまでさんざん赦しの訓練をしてきた身としては、赦しの効力を疑いそうになる誘惑は多かったが、それでもやはり、赦しに身を委ねるしかないと思っている。

 

ところがです。

 

私は赦しさえしていれば、この世界でうまくいきていくことができるとも信じていました。

 

赦しという心の変化は肉体のレベルにもしっかりと反映される。

 

そこから、きちんと赦してさえいれば自分のかかわる関係が穏やかに進行すると考えていました。

 

しかし今、赦しているにもかかわらず、それが相手に伝わることもなく、状況がどんどん悪化しているように感じていることに戸惑いを覚えていました。

 

このことから、自分は赦せていないんじゃないかと考えることもありました。

 

ですがこの世界の中においては、本質は完全な愛でさえ不完全なものです。

 

愛自体は完全であるが、それが完全な形で反映されることはないし、むしろそれが全く表に現れないことさえある。

 

2000年前、イエスは多くの人々の怒りをかい、磔刑という象徴的な攻撃の出来事を呼び寄せた。

 

エスの愛を未熟だったと言える人はいないでしょう。

 

全人類の兄たる彼の愛が本物だったからそこ、「奇跡講座」は現代に与えられたのだと考えます。

 

その本物の愛でさえ、この世界では不完全で、時には流血さえもたらすのです。

 

だから私は、目に見える結果に動じないようにしようと思いました。

 

兄弟の本当の姿を見れば、つまり彼らの光という本性をよく見つめさえすれば、意地悪な考えは浮かばないどころか、好意を通り越した尊敬の念さえ湧き上がってくるのだから、そのことだけをひたむきに思うように、そう改めて思った次第です。