宇宙はどうしてできたのか? というつまらない問い
宇宙がどうしてできたのか、そんなこと私は知りません。
実際、知ろうとも思いません。
『奇跡講座』の中では、何がこの世界を私たちに見せているのかの説明はありますが、宇宙の成り立ちについての説明は一切ありません。
つまり人生という実践と体験の場において、分離の原因は確かに把握する必要があるが、分離という象徴の起こり自体は何ら重要ではないということです。
実践において最も具体的で効率的な方法と理論を示し、自らは経路に過ぎないという姿勢を貫く『奇跡講座』を、私はとても気に入っています。
その透徹した内容には深くうなずきながら思わず声が出るし、しまいにはニコニコしてきて、おもわずそれに頬ずりしたくなります。
世の中には様々な宇宙創世記が語られている。
皆が口を揃えてこれが真摯な内容であるとは言うものの、それぞれに語る内容が異なるので困ってしまう人も多いのではないだろうか。
そして実践においては、
感謝 愛 赦し
これも大体共通している。
創世記に食い違いがあることはひとまず保留にするとして、私は、感謝、愛、赦しについて、それがどのようなものであるかの解説に欠けることについて指摘したいと思います。
というのも、それぞれの言葉の持つ語義が重要なのであり、単語という記号は象徴に過ぎないからです。
例えばこれは『奇跡講座』の中でも頻繁に質問として上がる、「赦しとは何か」という問題がある。
コースはこれを、「嘘を見過ごし真実だけを見る(これは私個人の言葉だが本筋は外れていないはず)」のように独自に定義しているわけであるが、これを実地において実践するには大変な努力が伴います。
なぜなら、私たちは赦しについて、何らかの罪に対してそれを許容することのように解釈しているからですが、これでは、意味が180度違ってきてしまいます。
同じような用語の解釈の相違が、感謝と愛に対してありえないと、断言できるでしょうか?
私たちは神からの分離感という問題を抱えて様々な艱難辛苦に喘ぎますが、そのように最も大切な自己を心から失った状態で、感謝や愛について正しい理解ができているはずがありません。
だから、学んでいるのではないでしょうか?
そして学ぶことによって、自分たち個人の生活と体験の質を高めること。これがもっとも重要なことです。
本当の霊的な道は、極めて個人的なものであり、大事なのは、自分が何を思い、何を為すかよりも、神の心が何を為し、何を思っているのかに気づくことです。
それが各々独自の創世記を語り、かつ他人の幸福にまで首を突っ込んで、ずいぶんと偉くなったものです。
本当に役立つものだけを厳選して語る『奇跡講座』。これは極めて個人的と言った通り、周囲の人には単なる優しさや落ち着きとしかうつらない場合がほとんどです。
一方の、役に立たないもので見聞きするするものを不快にしたり混乱させるものとの違いは、明白です。
多くのチャネラーの言うように、その人は確かに高次元の存在から情報を受け取るのかもしれませんが、その情報源が優れているという根拠はどこにもありません。
むしろそれがこの世界できちんと機能するものなのか、その点から評価するのが妥当でしょう。