神棚の効用②
昨日に引き続き、神棚の話題があります。
今回神様を我が家にお招きしたのは、ある意味家族が増えることも意味していると考えていました。
神様は人からの崇敬を受けて神となる。
また、神は人からのもてなしを喜ぶと言います。
ではもてなしとは何か?
それは一言で言えば、自分が大事にされていると思える待遇ということだと思います。
私にとって大事にするということは畏怖を伴うべきものではないと考えています。
私達に違った次元から導きをくれる存在たちに、特別な尊敬を持つことは自然なことですが、だからといってその存在たちに平伏したり何でも言うことを聞くような萎縮した態度をとるべきではないと思っています。
ということで、神様は私にとっては尊敬する特別な存在です。
神棚を設置した昨日の今日ということもありますが、数時間前に夕食に作った切り干し大根、自然栽培ほうれん草のおひたし、ししゃもをタッパーの蓋(今思うと不敬)に載せて神棚に上げました。
あまり置いておくわけにも行かないので1時間位してお下げして、自分が食べたところ、ほうれん草の味が殆ど無い。ししゃもも、切り干しも、どこか味が薄くなってまろやかになっている。。。
神様が食べた、、、?
のかもしれません。
思い出しましたが、神棚を置いた昨日は春分の日。
春分の日とは本来、皇室の祭事の日を表すおめでたい日だそうです。
良き日にお迎えできて、本当に良かったと思います。
神棚の効用
つい先日、印象的な夢を見ました。
細かい内容は割愛しますが、現在住んでいる一軒家が、古代よりの由緒ある神社だったというものです。
夢の中で、私は神社に住んでいました。
夢診断とかいうのがネットではかなり出回っていますが、「神社 夢」で検索しても、自宅が神域だった、というケースは見当たりませんでした。しかし、梅林の上を孔雀が西に向かって飛んでいくなど、かなりの吉夢であったことに違いはない。
これは不思議なのですが、夢から覚めて以後、敷地の雰囲気が微妙にですが変わりました。
何となくですが、この土地に神様が降りてきたような、そんな良い雰囲気です。
そんな訳でして、我が家にもとうとう神棚を入れねばということになり、早速準備。
これは意図せぬことでしたが、本日、立春という特別な日に神様を神棚にお迎えすることができました。


家の見取り図を確認して、東西割って家屋のど真ん中の南向き、ドアの枠よりも少し高い位置に定めました。(廊下に面した赤い印のところ)
ちなみに金の狛犬は、夢で敷地の鳥居を守っていたものに似たものを選びました。
神棚に向かって初めてのご挨拶。
すると自然と、素直な気持ちになりました。
いかに日常に感謝がかけているか
いかに未熟で思い上がりやすいか
そして自分が、世のため人のために働くことを切望していて、それに見あった人物になりたいか
神様へは、あくまで努力するのは自分だが、未熟故に導いて欲しいことを伝えました。
かねてから、形から入り心に至ることの有用性には気付いていましたが、神棚という家庭の中の神域が、ここまで自分の心を洗い出してくれるものとは思いませんでした。
神棚に少しでも関心があり、かつそこに住む人の同意さえあれば、神棚の設置は良いことをもたらすはずです。
神棚はご利益をもたらすツールではなく、ご利益が見える心を私たちに養ってくれるのかもしれません。
宇宙はどうしてできたのか? というつまらない問い
宇宙がどうしてできたのか、そんなこと私は知りません。
実際、知ろうとも思いません。
『奇跡講座』の中では、何がこの世界を私たちに見せているのかの説明はありますが、宇宙の成り立ちについての説明は一切ありません。
つまり人生という実践と体験の場において、分離の原因は確かに把握する必要があるが、分離という象徴の起こり自体は何ら重要ではないということです。
実践において最も具体的で効率的な方法と理論を示し、自らは経路に過ぎないという姿勢を貫く『奇跡講座』を、私はとても気に入っています。
その透徹した内容には深くうなずきながら思わず声が出るし、しまいにはニコニコしてきて、おもわずそれに頬ずりしたくなります。
世の中には様々な宇宙創世記が語られている。
皆が口を揃えてこれが真摯な内容であるとは言うものの、それぞれに語る内容が異なるので困ってしまう人も多いのではないだろうか。
そして実践においては、
感謝 愛 赦し
これも大体共通している。
創世記に食い違いがあることはひとまず保留にするとして、私は、感謝、愛、赦しについて、それがどのようなものであるかの解説に欠けることについて指摘したいと思います。
というのも、それぞれの言葉の持つ語義が重要なのであり、単語という記号は象徴に過ぎないからです。
例えばこれは『奇跡講座』の中でも頻繁に質問として上がる、「赦しとは何か」という問題がある。
コースはこれを、「嘘を見過ごし真実だけを見る(これは私個人の言葉だが本筋は外れていないはず)」のように独自に定義しているわけであるが、これを実地において実践するには大変な努力が伴います。
なぜなら、私たちは赦しについて、何らかの罪に対してそれを許容することのように解釈しているからですが、これでは、意味が180度違ってきてしまいます。
同じような用語の解釈の相違が、感謝と愛に対してありえないと、断言できるでしょうか?
私たちは神からの分離感という問題を抱えて様々な艱難辛苦に喘ぎますが、そのように最も大切な自己を心から失った状態で、感謝や愛について正しい理解ができているはずがありません。
だから、学んでいるのではないでしょうか?
そして学ぶことによって、自分たち個人の生活と体験の質を高めること。これがもっとも重要なことです。
本当の霊的な道は、極めて個人的なものであり、大事なのは、自分が何を思い、何を為すかよりも、神の心が何を為し、何を思っているのかに気づくことです。
それが各々独自の創世記を語り、かつ他人の幸福にまで首を突っ込んで、ずいぶんと偉くなったものです。
本当に役立つものだけを厳選して語る『奇跡講座』。これは極めて個人的と言った通り、周囲の人には単なる優しさや落ち着きとしかうつらない場合がほとんどです。
一方の、役に立たないもので見聞きするするものを不快にしたり混乱させるものとの違いは、明白です。
多くのチャネラーの言うように、その人は確かに高次元の存在から情報を受け取るのかもしれませんが、その情報源が優れているという根拠はどこにもありません。
むしろそれがこの世界できちんと機能するものなのか、その点から評価するのが妥当でしょう。
働かない という生き方
スピリチュアルな関心を持つと同時に私たちの心に沸き起こるのは、人間社会への疑問であったりします。
精神性への傾倒は、物質性への背反です。
ゆえにスピリチュアリストの一部は、資本主義のもたらした心の荒廃を槍玉にあげ、労働に対していささか懐疑的であったりします。
かくいう私も似たようなものでした。
多感な年頃にそういった事に目覚めたものですから、周り、特に親はさぞ困ったことでしょう。
自分には働くこと以上に大切なやるべきことがあると信じてそれのみを頼り、お金が尽きそうになつたらバイトする、そんな暮らしを数年続けました。
普通に働いてマイホームすらある今でも、当時の信念が大切なものであったと確信します。
あの時に内的な世界を養ったからこそ、また特に奇跡講座を学び論理的な思考を身に付けたからこそ、自分本来の才能が刺激されて、今の仕事に活かせていると感じます。
しかしあえて言うならば、当時の自分に向かってこう言いたい。
「目に見える現実が無であり、どうでもいいのであれば、働くことも働かないことも同様に無。ならばどうして、貧困であることの言い訳を探すのか?清貧であることの弁明が必要なのであれば、君は貧しいことに罪悪感を感じている。そうして君はあえて自分から罪悪感の虜になっている」
実家暮らしとはいえ、当時は貧しかった。
人に会うのも何となくはばかられたし、親戚に言い訳がたたないと思っていた。
活躍している友人のことを思うと、彼を霊的に見下すことで安心しようとしている自分に気付いていた。
そして霊的に正しいことをしていれば、実入りは勝手についてくるとなぜか思っていた。
ですがそれは、霊的なことでも何でもなかったのです。
両方を経験して分かることがあります。
働いているからこそ分かる、お金の社会の不条理、非道徳、退廃があります。
しかし労働が人同士を繋ぎ、経験を豊かにし、実に多くの学びを生み出すのも事実。
モノ的人生を豊かにするのは貨幣経済です。
逆に働かないことから得られるのは、内面への深い洞察、忘れていた情緒の発掘であったり、もっぱら目に見えない部分を豊かにします。
人生100年時代とされる今、人生はこの労働と充電、つまりは自己再生のための学習(心)と労働(モノ)のバランスをとりながら人生設計を行う必要があると言われています。
そういう意味で私は、人生で大切な心の基盤をそこで掘り起こすことができたように思います。
そして今、興味のあった農業分野で普通に働いて、研究し、いただいた対価で消費という経験をしたり、人にあったり親孝行をしたり、妹のいるドバイへ遊びに行ったり、未来の自分のために投資をしています。
確かにこういう生活をしていると、目の前のタスクに圧倒されて、霊的な本心を見失うことも多い。思い出したときは、やはりほっとするものです。
しかし霊的な学びとは、単に非物質的なものだけではないと最近考えます。
一生懸命行う極めて人間的な経験も、それが無であるということの"やさしい"再確認のために必要なのではないかと思うのです。
社会から逃げる口実として、スピリチュアリティを持ち出す人たちには、是非このバランスを身に付けてほしい。
その探求の方法は、あなたやその周りにいる人たちに不要な苦痛を与えている場合さえあるのである。
そして懸命に生きる人たちを尊敬する気持ちの向こうに、霊的な真理を見れるようになってほしい。
神は豊かさである。
コースは人生のガイドに過ぎない。
光が存在するなら闇は存在しない。
したがって、存在しないものを通り過ぎよ。真に存在するものとだけ同調せよ。
このように、コースの言うことは非常に単純です。
そして私たちがコースの訓練を通して経験するアハ体験(気づき)の数々は、この単純な教えを心に受け入れたときに例外なく起こるものです。
それが起こらないときは、何かを間違えている。
そう考えて間違いはないはずです。
私たちは人生を、非常に具体的で局所的な経験として味わっています。
だから人間とは、常に具体的な対応を求められる立場にあります。
さらには、二者択一を迫られる場面も多い。
私も相当に思い悩んだ経験があります。
少ない私の経験の上で語らせたいただくのであれば、コースの現実生活への応用こそが、最も混乱をきたす場面であると考えています。
そのうちのひとつがこれです。
もし兄弟が何か法外なことをあなたに求めてきたのであれば、それをしてあげなさい。なぜならそれは重要なことではないのだから、あなたがそれを拒否すれば、あなたはそれを重要であると見なし、彼と同じことをしていることになる。
というような事がテキストにはあります。
しかしこれは、読み方を気を付けなければいけない部分です。
なぜなら、それを文字通りに実践した私は、大変に痛い目をみたからです。
これは、心のもちようについての一節と解釈して間違いありません。
単純に相手の要求の通りにすることは、麗しい愛でも素直な信仰心でもありません。
例えば友人のボブが、意味不明な理屈であなたに謝罪を要求してきたとする。
そこで重要なのは、謝罪するか、謝罪を断るかのどちらでもないのです。
この場で重要視されるのは、あなたは相手の真の姿をみているかどうか、というところです。
"良い回答の一例"を見てみましょう。
「オーケイボブ、君が望むなら、ボクは喜んでそうしたいと思う。でもねボクがそうしたところで、君のためにはならない。だから君に謝ることはできない。」
まず兄弟の真の姿、すわなち神の子を見ているのなら、神の子の願いは、その彼の本性ゆえに、何でも叶えてあげたいと思える。
これが兄弟を赦す際の大前提の視覚になります。
しかし次に、願いを叶えてあげることで神の子にとって明らかな不利益となるならば、その神の子を愛しているがゆえに、それは断られる、ということになる。
これは自分の子供の癇癪をなだめる事と似ています。
子供は時に自分にとって危険なものを喜びますが、それは危険であることを理解していないからです。
親はよくわかっていますから、それをやめさせます。本当は子供が満足して喜ぶ顔をみるのが何よりの幸せなのですが、不利益をもたらす事には賛同しません。
例えばここで、求められたことは重要ではないのだからやってあげなさい、という考えをそのまま実行したらどうなるでしょうか?
人は時には傷つくことで成長しますが、結果がその一瞬だけにとどまることはほとんどないし、当事者だけに影響が限定されることの方がまれです。
それに何かを学ぶにあたって、悪い手本を見ることも必要だが、良い手本にコミットした上でそれをみなければ、誤った方向に学ぶ可能性が高いと思われます。
それに私たちは今、良い体験を求めているのだから、間違いを意図的に起こす必要など、どこにもないのです。
特に、これまで私たちが先進的良識として社会から刷り込まれてきた、
「協力、同調、献身」
これらの扱いには気を付けねばならない。
私たちに、困っている人を助けることはできません。
彼らは自ずから不幸になり、問題を抱え、そしてそれを自力でなんとかしていくものです。
他人である私たちにできることと言えば、相手の学びを尊重して、一歩離れたところからアイデアを提供するとか、少しだけ離陸の後押しをするとか、といったところです。
何とかしてやることもできなくはない。
ところがそれは、相手のカルマ、学ぶべき課題の肩代わりとも言える行為であって、それはお互いに良い影響を与えません。
つまり私たちは、分かりやすい良心の命ずるままにではなく、霊的進歩の観点から、相手の人生への介入を慎重に決めなければならないのです。
感情的に動く場合、共依存や様々な精神的問題が起こる可能性が高い。
これは個人主義とか何とかといった話ではなく、もっと根本的な話だということは理解していただけるはずです。
私は、コースの語る内容に偽りはないと確信していますが、その解釈には気を付けなければならないことをここで強調したい。
私たちはこれまで、愛を誤って学んできました。
だから、例えば刷り込みの愛を至聖のものとして賛美することもあれば、
残念なことに本当に知性ある選択に対して罪悪感を抱いてしまう場合もあります。
これらはもはや、自ら真剣に生きていく中で学びとる以外に方法はありません。
だから生きるのです。
真剣に生きていれば、自分に見あったステージへと、自然と導かれるものだと、最近強く感じます。
コースが全てではなく、人生をより良く生きるためのガイドに過ぎないとも、この頃よく考えることがあります。
位置付けを誤るならば、それは宗教の犯してきた誤りを繰り返すことになるので気を付けたいところです。
重要でないこと
この頃よく思います。
人間として重要だと感じている物事は、その通り重要なものではないということ。
今の私にそう思わせるもの、それは例えば「家族」。
もともと子供のいる女性と一緒になったが故に(それは元夫がいることを暗示する)、私は持つべき家族という信条にすがろうともそうすることができなかった。
自分だけの女
自分に由来を持つ子供
そういった、男なら誰しも持つと思われる欲求を、私は満たすことができなかった。
とくに彼女が元夫やその夫に引き取られた子供との交流を持つとき、私は深い虚脱感を覚えた。
詳しい内情は説明するに及ばないが、比較的一般的な見識を持つ読者なら、私の今置かれている家族的状況には同意することがないだろう。
というのも、他人でありながら私は自分の妻子も持たず、ある女とその子供の面倒を見ているようなものだから。
このことで私はずっと葛藤していた。
しかし同時に、この世界が私を満たしてくれるかもしれない、という期待を自分がずっと持ち続けている事に気づくことができた。
家族という幻想が私のアイデンティティを十全なものにしてくれるという幻想を抱き、達成不可能なそれを追求する事で私は傷ついていたのです。
こんな私が思うのは、
家族とか、繋がりとか、人間が大事に扱う他者との関わりの形態の全てが、本質的には何の意味もないという事です。
人は生まれてくるときは一人
そして死ぬときも一人
赦しという自己再生の必要に際して、他人が自分とどのような具体的な関係を築いてきたかはどちらでもいいこと。
ただ目の前にいるというそれだけで、赦す者、つまり聖霊の意思に同意する者にはその他の情報は不要。
なぜなら、知覚は知覚した者の投影が作り出すから、投影を延長へと再解釈すべき者には、それ以外の情報は不要であるどころか、過ちを生むからです。
家族であろうと、他人であろうと、それが私たちの意思決定に関わってくる要素とはなり得ない。
つまり、体から自由にして愛するか、体の中に閉じ込めて憎むかの選択に、その者が自分にとって具体的にどのような存在であるかなど、全く意味を持たない情報だからである。
もちろん、その人との関わり方によっては、具体的な接し方に違いが出てくるだろう。
しかしながら、他者との関わりにおいてその根底が変わることはない。
彼を肉体であると考えるがゆえに裁くか
それとも肉体を超えているがゆえに尊重し、その真の姿を愛するか
そのどちらかしかありません。
本来無形のところからやって来た私たちは、肉体という思考を通り過ぎるために修行しています。
しかし肉体が楽しみや快適さを与えてくれると思い込んでいる度合いに応じて、その信念を手放す過程にはそれなりの抵抗が生じる。
それは実際、気付かれない形で私たちを縛り上げている。
ですが今回の私のように、それに気づき、手放せば、その瞬間大いなる平安が訪れることは確実です。
世の中の常識では量れない、大いなる平安がここにあります。
『カモメのジョナサン』よりまなぶ 2
何よりも読みやすいし、中古なら108円で手に入るので実際に読んでもらう方が早いのですが、まず簡単にあらすじを紹介します。
あるところに、大多数とは違った風変わりなジョナサンというカモメがいた。
ジョナサンは他のカモメたちがあたりまえにしている習慣から遠ざかり、一人飛ぶことの練習をしていた。
やがて新たな技術を身に付けたがしかし、群れの仲間には受け入れられず、<遥かなる崖>への流刑に処されてしまう。
しかしその後も一羽だけであらゆる技術を身に付けた。そしてある時、<本当のふるさと>よりジョナサンを迎えに来たと言う二羽のカモメに出会う。彼らの見事な飛行技術にジョナサンは驚嘆し、その世界へ行くことを決意。
やって来た新たな世界でジョナサンは、自分と同じような連中と飛行技術を高め合う。能力は格段に向上したが、それでも限界があることにも気付く。
ある時そのグループの長老と言われるチャンから、ここは天国ではないということを教わる。長老の瞬間移動を目の当たりにしたジョナサンは、早速チャンからの手解きを受ける。チャンは言う。
「天国とは時間ではなく、場所でもない、それは完全なる境地のことである」
練習の末、ジョナサンは自分が肉体にとらわれる事のない完全なカモメであることを知る。そして瞬間移動をものにした。その後もあらゆることを素早く学んだ。
チャンに言われた通り、愛することを学ぶほどに、ジョナサンには昔自分がいた地上が思い出された。
仲間からの反対を押しきり地上に戻ると、過去の自分と同じように熱意をもって生きるカモメたちに飛行技術の指導を始めた。
生徒は次第に増えていった。しかしそれが、カモメ本来の無限の思想を表現する一つの段階だということを理解する生徒は居なかった。
そしてある時、生徒たちと昔の群れに戻ると、同じように教え始めた。
群れからの、追放されたカモメに対しての反発は多かったが、それでも自由と飛行の喜びを求めて生徒になる者もいた。
ジョナサンはこのように説いた。
「我々は偉大なカモメの思想そのものであり、翼の先から先まで、これが自分だと思う思考そのものなのだ。思考の鎖を断てば、肉体から自由になれる。飛ぶことは、我々がその真の自分を表現するための一つの段階なのだ」
そして、私はただの飛ぶことが好きなカモメなんだから神様に祭り上げんでくれ、と言い残し、虚空の中へ消えていった。
そしてその思想と実践は、生徒の一羽であったフレッチャー・リンドに受け継がれる。
フレッチャーはジョナサンの不在に動揺したが、ふと、自分の受け持つ生徒たちの真の姿を目の当たりにした。そして無限なのだということを理解した。
フレッチャーの完全なる者への歩みはすでに始まっていた。
ここで物語は終わります。
数年前刊行された完全版というやつは更にそのあとの話を付け加えているが、あれは完全な蛇足と言わざるを得ない。
儲けたい出版社の下心と私は思っている。
新しく付け足した4章で、わざわざ迷信に走ったカモメたちを描写する必要などなかったのだ。
なぜなら、わざわざ光を遮るものに目を向ける必要はなく、この本は、熱い魂を掻き立てるスマートな本だから。
本の性質を誤解した改悪とでも言えようか、なぜ初版に4章がつかなかったのか、その理由をなぜ考えなかったのだろうか?
そんなことはさておき、次回からきちんとした説明に入ります。