kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

重要でないこと

この頃よく思います。

 

人間として重要だと感じている物事は、その通り重要なものではないということ。

 

今の私にそう思わせるもの、それは例えば「家族」。

 

もともと子供のいる女性と一緒になったが故に(それは元夫がいることを暗示する)、私は持つべき家族という信条にすがろうともそうすることができなかった。

 

自分だけの女

 

自分に由来を持つ子供

 

そういった、男なら誰しも持つと思われる欲求を、私は満たすことができなかった。

 

とくに彼女が元夫やその夫に引き取られた子供との交流を持つとき、私は深い虚脱感を覚えた。

 

詳しい内情は説明するに及ばないが、比較的一般的な見識を持つ読者なら、私の今置かれている家族的状況には同意することがないだろう。

 

というのも、他人でありながら私は自分の妻子も持たず、ある女とその子供の面倒を見ているようなものだから。

 

 

このことで私はずっと葛藤していた。

 

しかし同時に、この世界が私を満たしてくれるかもしれない、という期待を自分がずっと持ち続けている事に気づくことができた。

 

家族という幻想が私のアイデンティティを十全なものにしてくれるという幻想を抱き、達成不可能なそれを追求する事で私は傷ついていたのです。

 

こんな私が思うのは、

 

家族とか、繋がりとか、人間が大事に扱う他者との関わりの形態の全てが、本質的には何の意味もないという事です。

 

人は生まれてくるときは一人

 

そして死ぬときも一人

 

赦しという自己再生の必要に際して、他人が自分とどのような具体的な関係を築いてきたかはどちらでもいいこと。

 

ただ目の前にいるというそれだけで、赦す者、つまり聖霊の意思に同意する者にはその他の情報は不要。

 

なぜなら、知覚は知覚した者の投影が作り出すから、投影を延長へと再解釈すべき者には、それ以外の情報は不要であるどころか、過ちを生むからです。

 

家族であろうと、他人であろうと、それが私たちの意思決定に関わってくる要素とはなり得ない。

 

つまり、体から自由にして愛するか、体の中に閉じ込めて憎むかの選択に、その者が自分にとって具体的にどのような存在であるかなど、全く意味を持たない情報だからである。

 

もちろん、その人との関わり方によっては、具体的な接し方に違いが出てくるだろう。

 

しかしながら、他者との関わりにおいてその根底が変わることはない。

 

彼を肉体であると考えるがゆえに裁くか

 

それとも肉体を超えているがゆえに尊重し、その真の姿を愛するか

 

そのどちらかしかありません。

 

 

本来無形のところからやって来た私たちは、肉体という思考を通り過ぎるために修行しています。

 

しかし肉体が楽しみや快適さを与えてくれると思い込んでいる度合いに応じて、その信念を手放す過程にはそれなりの抵抗が生じる。

 

それは実際、気付かれない形で私たちを縛り上げている。

 

ですが今回の私のように、それに気づき、手放せば、その瞬間大いなる平安が訪れることは確実です。

 

世の中の常識では量れない、大いなる平安がここにあります。