実在する選択肢について
To be or not to be that is the question.
という有名な一節をご存知の方は多いと思う。
このシェイクスピアの一節に対する解釈がいくつもあることは置いておいて、私たちは常日頃より非常に多くの選択の中で暮らしている。
朝起きることからはじまり、
今日はどんな服を着ようか
仕事はどこから手をつけようか
何を食べようか
誰と居ようか
どの番組を見ようか
いつ歯医者に行こうか
はたまた、
離婚した方がいいんじゃないか
転職したいのだけれど
いっそのこと海外で暮らそうか
生きるべきか、死すべきか......
など、大きいものから小さいものまで、私たちは選択という当たり前の中を生きている。
しかしそれらは真の選択ではないと思います。
なぜなら、この世界はどこへ行って何をしようと、必ず虚しさが付きまとうだけだからです。
選択とは、それぞれ結果の異なる両者を前にしてはじめて成り立つもの。
この世界でできるかに見える選択とは、
虚しさやらさらなる物足りなさ、つまり欠乏感という結果および、自分の感情や行動は外的環境によって左右されるという脆弱な自己認識の保存という結果以外のものをもたらすことはない。
そのようには見えない、大多数に愛として認められている選択でさえも、肉体から離れた概念ではないために、上の選択のパターンのうちの一つに数えることができる。
私たちは普段から具体的な選択に囚われがちであるが、
真の選択とは、私たちが平安を選ぶか、それとも攻撃と恐れを選ぶのかという次元でのみ意味を持つものだと私は思っている。
私たちはいつも、極めて具体的な選択が自身の体験を直接喚起するものだと信じている。
しかし体験とは選択的なものであり、すなわち、上の<平安か恐れか>という選択によって左右されるものである。
例えばであるが、
自分の家族に対して思ったことを言うべきかどうかを判断することは、選択とは言えない。
自分は平安が欲しいのかどうかの判断こそが、その後、真に自他にとって有益な言動を引き出す要因となる。
そして真の平安とは神の平安であるから、それは私たちを肉体と見なす判断ではあり得ない。
肉体から自由にし、全ての誤りから解放する眼差しでもって兄弟や世界を眺めるとき、私たちはそれと同時に自身の解放を実感する。
真の実在する選択とは、それを認識した瞬間に私たちに自由を与えるものです。
とても親切で明瞭、誰もその明らかなことを疑うことのないものです。