kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

苦しみを探そう!

タイトルがひねくれているように感じますか?

 

しかし私はいたって大真面目です。

 

私たちは、この世界に喜びがあると思っています。

 

追求すべき夢があると思っているし、大切にしなければいかないものがあると信じています。

 

これさえああなってくれれば...

彼さえ、彼女さえ変わってくれたなら...

自分がもっと〇〇だったら...

 

という感情のいずれも、まず自分が満たされておらず、この世界の特定の形の中に自分の満足があるはずだという考えが根本にあります。

 

ここで、核心をついた一節を引用をしてみましょう。

 

一  傍に立って、かの神は尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。執着するよりどころによって、人間に喜びが起こる。執着するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」

二  [尊師いわく、ー]

  「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執着するよりどころによって人間に憂いが起こる。実に、執着するよりどころのない人は、憂うことがない。」

(ブッダ  神々との対話  中村元訳  岩波文庫 より)

 

何かを望むことは、同時にそれについて気にかけ、心配し、達成を邪魔するものについては、時として何としてもそれを排除しようとする凶暴性を引き出します。

 

そして望んでいる間、それは手に入っていないわけですから、その心は欠乏感を感じています。

 

たとえば、楽しみでワクワクしているときのあの心のざわめきは、果たして心地よいものでしょうか?

 

よく注意して観察してみると、私にはそうは思えません。

 

よく見てください。

 

その瞬間、心は落ち着きがなく、苦しんでいます。

 

足らない、と思っている。

 

少なくとも、安らかな状態ではない。

 

その他にも、苦しみは私たちの生活のあらゆる場面で見つけることができます。

 

というのも、私たちは自分が体だと思い込んでおり、ゆえに常にこの世界に期待せざるを得なかったからです。

 

ご自分の努力で、見つけてみてください。

 

そもそも、誰もが自分の容姿や体に対して不満を持っている時点で、常にその呪縛にかかっていると言えるでしょう!

 

体とは苦しみです。

 

言われたことを鵜呑みにしたり反発したりせずに、まずはそれを、他ならぬ自分の観察で確認しましょう。

 

このようにして自分が自由と救いを必要としていることに気がつかなければ、そこから脱出することなど考えることすらできません。

 

どんなに小さなものでも、苦しみを探すことには意味があります。

 

ひとつ苦しみを見つければ、ひとつ自分を縛るものから自由になれるきっかけを手にすることになります。