kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

善悪とは何か

善悪を考える前に、私たちの実相について考慮する必要があります。

 

私たちが何者なのか分からない状態で、それを云々するわけにはいかないからです。

 

まず、肉体とは私たちの考えが目に見える形をとったものなので、これは私たちではありません。

 

肉体とは私たちの"考え"であり、それ以上のものではありません。

これは本当のことです。

 

「我思う、故に我あり」

 

という言葉は半分的を得ているようで、実はこれも違います。

 

実相とは思考を超越していて、在ることに思考は必要ないからです。

 

考えることは意識することであり、意識するとは即ち、対象の存在があることを意味します。

 

しかし、実相において分離は存在しないのです。

 

分離が存在しないところには死も、病気も、不安も、時空間さえありません。

 

私はあるとき実相に目覚めた事があるのですが、尽きることの無い永遠の喜びと無限の力が、それを思い出した時に感じられました。

 

悟りなど脳内麻薬の見せる幻想だと思っている人がいるようですが、逆に分離感こそが幻想です。

 

永遠の命は、私たちの誰もが確かに受け継いでいるものです。

 

 

さて、善悪の話に進みますが、それは先に述べた実相を強化する想念か、損ない忘れさせる想念かの違いによって弁別できる。

 

しかし実相が損なわれることはありません。

 

実相は永遠だからです。

 

となると、

確かな善はありますが、

確かな悪はないことになります。

 

善とは実相の肯定です。

 

なので善とは自然なことであり、分かりやすいことであり、親しみやすく、親和性のあるものです。

 

一方で、悪とは善が欠如した決断や行いと見なければなりません。

 

さもないと、あなたは悪に実体を認めることで、自分を傷つけ弱らせる力を与えることになります。

 

悪とは単に、実相の欠如に過ぎません。

 

それは私たちを不安にさせ、バラバラにして、独りぼっちにします。

疑い深くし、病に苦しむ体を与え、時には非常に凶暴にさせます。

 

これらを引き起こすのは悪ではなく、実相、あるいは真理の不在です。

 

闇とは光の欠如、という言葉をどうか忘れずにいてください。

 

 

誰かが悪を行ったとあなたが知覚したとき、この見方が必ず役に立ちます。

 

そして覚えておいていただきたいのは、実相の欠如を知覚しているのは誰か?という点です。

 

常にあるものが見えていないのは他ならぬ私たち自身です。

 

だから、私たちは、自分の心と目と行いだけに、充分に注意を払っていればよい。

 

人のことなどいいのです。

 

私たちは人に指導できるほど偉くも賢くもありません。