働かない という生き方
スピリチュアルな関心を持つと同時に私たちの心に沸き起こるのは、人間社会への疑問であったりします。
精神性への傾倒は、物質性への背反です。
ゆえにスピリチュアリストの一部は、資本主義のもたらした心の荒廃を槍玉にあげ、労働に対していささか懐疑的であったりします。
かくいう私も似たようなものでした。
多感な年頃にそういった事に目覚めたものですから、周り、特に親はさぞ困ったことでしょう。
自分には働くこと以上に大切なやるべきことがあると信じてそれのみを頼り、お金が尽きそうになつたらバイトする、そんな暮らしを数年続けました。
普通に働いてマイホームすらある今でも、当時の信念が大切なものであったと確信します。
あの時に内的な世界を養ったからこそ、また特に奇跡講座を学び論理的な思考を身に付けたからこそ、自分本来の才能が刺激されて、今の仕事に活かせていると感じます。
しかしあえて言うならば、当時の自分に向かってこう言いたい。
「目に見える現実が無であり、どうでもいいのであれば、働くことも働かないことも同様に無。ならばどうして、貧困であることの言い訳を探すのか?清貧であることの弁明が必要なのであれば、君は貧しいことに罪悪感を感じている。そうして君はあえて自分から罪悪感の虜になっている」
実家暮らしとはいえ、当時は貧しかった。
人に会うのも何となくはばかられたし、親戚に言い訳がたたないと思っていた。
活躍している友人のことを思うと、彼を霊的に見下すことで安心しようとしている自分に気付いていた。
そして霊的に正しいことをしていれば、実入りは勝手についてくるとなぜか思っていた。
ですがそれは、霊的なことでも何でもなかったのです。
両方を経験して分かることがあります。
働いているからこそ分かる、お金の社会の不条理、非道徳、退廃があります。
しかし労働が人同士を繋ぎ、経験を豊かにし、実に多くの学びを生み出すのも事実。
モノ的人生を豊かにするのは貨幣経済です。
逆に働かないことから得られるのは、内面への深い洞察、忘れていた情緒の発掘であったり、もっぱら目に見えない部分を豊かにします。
人生100年時代とされる今、人生はこの労働と充電、つまりは自己再生のための学習(心)と労働(モノ)のバランスをとりながら人生設計を行う必要があると言われています。
そういう意味で私は、人生で大切な心の基盤をそこで掘り起こすことができたように思います。
そして今、興味のあった農業分野で普通に働いて、研究し、いただいた対価で消費という経験をしたり、人にあったり親孝行をしたり、妹のいるドバイへ遊びに行ったり、未来の自分のために投資をしています。
確かにこういう生活をしていると、目の前のタスクに圧倒されて、霊的な本心を見失うことも多い。思い出したときは、やはりほっとするものです。
しかし霊的な学びとは、単に非物質的なものだけではないと最近考えます。
一生懸命行う極めて人間的な経験も、それが無であるということの"やさしい"再確認のために必要なのではないかと思うのです。
社会から逃げる口実として、スピリチュアリティを持ち出す人たちには、是非このバランスを身に付けてほしい。
その探求の方法は、あなたやその周りにいる人たちに不要な苦痛を与えている場合さえあるのである。
そして懸命に生きる人たちを尊敬する気持ちの向こうに、霊的な真理を見れるようになってほしい。
神は豊かさである。