コースは人生のガイドに過ぎない。
光が存在するなら闇は存在しない。
したがって、存在しないものを通り過ぎよ。真に存在するものとだけ同調せよ。
このように、コースの言うことは非常に単純です。
そして私たちがコースの訓練を通して経験するアハ体験(気づき)の数々は、この単純な教えを心に受け入れたときに例外なく起こるものです。
それが起こらないときは、何かを間違えている。
そう考えて間違いはないはずです。
私たちは人生を、非常に具体的で局所的な経験として味わっています。
だから人間とは、常に具体的な対応を求められる立場にあります。
さらには、二者択一を迫られる場面も多い。
私も相当に思い悩んだ経験があります。
少ない私の経験の上で語らせたいただくのであれば、コースの現実生活への応用こそが、最も混乱をきたす場面であると考えています。
そのうちのひとつがこれです。
もし兄弟が何か法外なことをあなたに求めてきたのであれば、それをしてあげなさい。なぜならそれは重要なことではないのだから、あなたがそれを拒否すれば、あなたはそれを重要であると見なし、彼と同じことをしていることになる。
というような事がテキストにはあります。
しかしこれは、読み方を気を付けなければいけない部分です。
なぜなら、それを文字通りに実践した私は、大変に痛い目をみたからです。
これは、心のもちようについての一節と解釈して間違いありません。
単純に相手の要求の通りにすることは、麗しい愛でも素直な信仰心でもありません。
例えば友人のボブが、意味不明な理屈であなたに謝罪を要求してきたとする。
そこで重要なのは、謝罪するか、謝罪を断るかのどちらでもないのです。
この場で重要視されるのは、あなたは相手の真の姿をみているかどうか、というところです。
"良い回答の一例"を見てみましょう。
「オーケイボブ、君が望むなら、ボクは喜んでそうしたいと思う。でもねボクがそうしたところで、君のためにはならない。だから君に謝ることはできない。」
まず兄弟の真の姿、すわなち神の子を見ているのなら、神の子の願いは、その彼の本性ゆえに、何でも叶えてあげたいと思える。
これが兄弟を赦す際の大前提の視覚になります。
しかし次に、願いを叶えてあげることで神の子にとって明らかな不利益となるならば、その神の子を愛しているがゆえに、それは断られる、ということになる。
これは自分の子供の癇癪をなだめる事と似ています。
子供は時に自分にとって危険なものを喜びますが、それは危険であることを理解していないからです。
親はよくわかっていますから、それをやめさせます。本当は子供が満足して喜ぶ顔をみるのが何よりの幸せなのですが、不利益をもたらす事には賛同しません。
例えばここで、求められたことは重要ではないのだからやってあげなさい、という考えをそのまま実行したらどうなるでしょうか?
人は時には傷つくことで成長しますが、結果がその一瞬だけにとどまることはほとんどないし、当事者だけに影響が限定されることの方がまれです。
それに何かを学ぶにあたって、悪い手本を見ることも必要だが、良い手本にコミットした上でそれをみなければ、誤った方向に学ぶ可能性が高いと思われます。
それに私たちは今、良い体験を求めているのだから、間違いを意図的に起こす必要など、どこにもないのです。
特に、これまで私たちが先進的良識として社会から刷り込まれてきた、
「協力、同調、献身」
これらの扱いには気を付けねばならない。
私たちに、困っている人を助けることはできません。
彼らは自ずから不幸になり、問題を抱え、そしてそれを自力でなんとかしていくものです。
他人である私たちにできることと言えば、相手の学びを尊重して、一歩離れたところからアイデアを提供するとか、少しだけ離陸の後押しをするとか、といったところです。
何とかしてやることもできなくはない。
ところがそれは、相手のカルマ、学ぶべき課題の肩代わりとも言える行為であって、それはお互いに良い影響を与えません。
つまり私たちは、分かりやすい良心の命ずるままにではなく、霊的進歩の観点から、相手の人生への介入を慎重に決めなければならないのです。
感情的に動く場合、共依存や様々な精神的問題が起こる可能性が高い。
これは個人主義とか何とかといった話ではなく、もっと根本的な話だということは理解していただけるはずです。
私は、コースの語る内容に偽りはないと確信していますが、その解釈には気を付けなければならないことをここで強調したい。
私たちはこれまで、愛を誤って学んできました。
だから、例えば刷り込みの愛を至聖のものとして賛美することもあれば、
残念なことに本当に知性ある選択に対して罪悪感を抱いてしまう場合もあります。
これらはもはや、自ら真剣に生きていく中で学びとる以外に方法はありません。
だから生きるのです。
真剣に生きていれば、自分に見あったステージへと、自然と導かれるものだと、最近強く感じます。
コースが全てではなく、人生をより良く生きるためのガイドに過ぎないとも、この頃よく考えることがあります。
位置付けを誤るならば、それは宗教の犯してきた誤りを繰り返すことになるので気を付けたいところです。