kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

神からの召命に従う

神について、日本人は、高慢な態度を持った、移り気で不安定な人格、のようなイメージを持っていることが多いように思います。

 

これは他の物事についても全く同じことが言えますが、たとえばそれに対してどんなイメージを抱いていようとそれはイメージであり、直接知ることなしに、対象を理解することはできません。

 

私はこれまでの神秘体験から、神について、それを人格としてではなく、自己の本源として理解しています。

 

また神とは不変の原理そのものであり、私たちが精神的により質の高い生活を送ることを目標とする根拠でもあります。

 

なので神が直接肉声として私たちに語りかけることはないと思っています。

 

もし私たちが何らかのメッセージを受け取るとすれば、それは、神の普遍的な想念が、私たちの具体的な生まれや育ち、これまでに経験してきたことなどのフィルターを通して私たちに理解できる形となって表れています。

 

その神からの想念と感応し常に通っている心の部分を、世の中では、ハイアーセルフ、真我、あるいは聖霊というのではないかと考えています。(私はコースを学んでいるので以後聖霊という言葉を使います。キリスト教とは関係ありません)

 

神と私たちの間の仲介者として、便宜上これらの概念はとても便利です。

 

実際、私たちはこの具体的な世界の中に生きているわけですから、神という抽象的な想念よりも、聖霊という具体的な導き手の方がずっと役に立ちます。

 

 

さて、神からの召命という話に移りましょう。

 

嘘の中では、真実は常に現出しようと待ち構えています。

 

この嘘の中で真実を見出そうとする人はそれぞれ、真実を発見するのに一番ふさわしいそれぞれの道筋を持っています。

 

それは神が用意した道ではなく、私たちが神から遠ざかってきた道筋を、再び戻ろうとする道です。

 

誤りを信じているのは私たちであるから、その誤りを神の審判(それが真実か非真実かの判断)にかけるのも私たちです。

 

つまり神からの召命に従うとは、我が家に帰るために、私たちが元来た道を戻ることに他なりません。

 

大悟して大勢の迷える人間を導くとか、本を出版するとか、そんなことではないと思います。

 

もっと純粋に、もっと泥臭く目立たない人間らしい生の中で、赦しの実践を行うこと。

 

人として生きながら、人ならざる生き方をする。

 

そんなことを脇目も振らずにやっていると、気がついたときには自分がすっかり変わってしまっていることに気づきます。

 

より強く、より大胆に、ついには迷ったり躊躇することはなくなるものだと思います。

 

私も、迷いのない明らかな人生を送りたいものです。