与えることの難しさ
前回の記事では、与えることがいかに私たちの人生の中心的な課題となっているかをお話ししました。
今回は、その難しさについての話をします。
まず、人生を簡単と言う人はまずいないと思います。
居るとしたら、彼は人生を大きく誤解しているか、人生について本当に考えたことがないのでしょう。
そしてその人生の難しさは、転じてそのまま与えることの難しさに相当します。
与えることとは、肉体の目で見れば犠牲を伴うことです。
金品を差し出す
手間を差し出す
時間を差し出す
気持ちを差し出す
これらの言葉に、私たちは常に自分から資産が出て行くことをイメージします。
犠牲を快く思う人はいないでしょう。
自分の恋人や家族にさえ、常に限りのない奉仕をすることは難しいのではないでしょうか。
勢いのあるときはいい。
しかしある時ふと、
「自分はこんなに頑張っているのに!」
という具合に、与えることがストレスとなります。
損失を取り返すために、その損失の量に応じた何かを手に入れることを望み、それをしばしば"ご褒美"という妥協的な形で実行します。
ところが与えるというのは、何の見返りも求めずに行わなければなりません。
与えるという行為は、状況に関係するあらゆる全ての要素の過去と未来を問わず、今だけの中でシンプルになされるものです。
だから、私たちは過去と未来から完全に自由とならなければ、真に与えることはできないし、その意味も理解できません。
過去も未来もない真っさらな今の中で、与えるという純粋な行為は何の難しさも伴いません。
時間とは、私たちを恐れに繋ぎ止める鎖のようなものです。
そして肉体も、私たちの考えの投影されたものに過ぎないため、時間に依拠した想念だと言えるでしょう。
真に与えるとき、私たちは肉体の存在を認めない法則の中で機能しています。
肉体、時間、恐れ、犠牲、そして与えること
何個もキーワードが出てきましたが、その相関性と個々の持つ具体的な意味合いについてここでその全てをお話するわけにはいきません。
私が把握できていないところも多いことも主要な理由のひとつですが、相関性を理解することよりも、いかにして与えることと自分の人生をひとつにすることができるかに集中すべきだからです。
与えることはとてもシンプルなことです。
しかしシンプルなために、シンプルだからこそ、それはきわめて難しいのです。