努力とは、継続する力
どうもこんにちは。
私はよく妻と近所の図書館に行って、面白そうなDVDを見つけるとそれを借りて観ます。
先日はNHKのプロフェッショナルを借りました。
将棋の天才、羽生善治名人についてでした。
名人はインタビューの中で自身のブランクについて語っていました。
30歳辺りになると、これまで武器にしてきた反射神経や記憶力が落ちはじめる。成績が思わしくなくなった。
これまでの戦い方を変えていくにあたって、還暦を超えた名人たちが自分なりの将棋を追求し続けながら勝負を続けている姿が目に入ったそうです。
その時期と気づきとを振り返り、名人は次のように才能について定義しておりました。
才能とは、努力を継続する力。
たとえば、
20年間、毎日同じことを一時間続けられる人はほとんどいない。
これを続けられること、つまり走り続けることができることを才能と言うのだと思う。
私が奇跡講座を実践し始めたのが18歳の冬。
たったの8年かもしれませんが、全力で取り組んでこれた事を考えれば、素直に誇りに思えます。
やっとと言うべきかもしれませんが、羽生名人の仰るような、長期的に継続する事の難しさについても、この頃実感を持てるようになってきました。
奇跡講座のワークブック篇では、毎日違った主題概念が与えられます。
レッスンの形は日々違えど、しかし自分の思考と経験を今現在の体験の中から取り除いていくという課題が常に含まれています。
真理の自覚を妨げているのは、他らならぬ思考、そして経験だからです。
奇跡講座のレッスンの実践を重ねていく中で、人生は否応なしに進んでいくわけですから、うかうかしていると経験(それは主に感情的な積み重ねが多い)が次から次へと積み重なっていきます。
しかしそれが私たちを臆病にさせ、判断する能力を鈍らせるので、
まるでテトリスのように、積み重なりそうになる経験を意識的に取り消していかねばなりません。
残念ながら、こういったことはやはりそれなりの時間をかけないと分からないものです。
ところが、ただいたずらに時間をかけただけで分かるものでもない。
できれば、一生懸命仕事をしたり、家庭を持ち子供を養って世の中と思いっきり関わった方が、結果的に多くの教訓を得られるというものです。
ましてや人にこういった事を伝える身ともなれば、半端な事をしていてはいけないと思うのです。
経験の持つ負の側面で言えば、
これは全ての人に当てはまるとは言いませんが、たとえば年配の方は自分の考え方を変えようと思っても中々変えることができない特徴があります。
このように、私たちは、やろうと思えば自分を決まった習慣やパターンにはめてしまうこともできます。
しかし、経験に有用性がないわけではないことは誰もが知っている通りでございます。
直感は経験によって磨かれる、というお考えは、同じく羽生名人の言葉であります。
赦しという、全く人の目に映らなず、むしろほとんどの人から認知される事のない精神的なダイナミズムも、
片や目に見えて分かりやすく、評価もされ、マネタイズできる仕組みが世の中で成立している将棋やビジネス、文化やスポーツも
探求者の姿勢には一貫したものがあります。
探求者は、経験を味方につけてうまく利用しています。
逆に敗者は、経験を塞ぎこむための理由として、決してその思い込み(必要なものは全て過去から学んだという考え)から抜け出せない。
よく真理を発見したいなどと人に言うと怪しまれ信用されませんが、
経験に対する考え方の共通点などから、私はあらゆる分野の一流の人々に親しみを感じます。
物質的に満たされた社会の中で、精神的な豊かさを求める人たちへの評価はもっと高められてもいいと、しずかな心を持って、そう願っています。