kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

義憤は判断を誤らせる

赦しとは幻想(嘘)を真理(真実)のもとへと運ぶことです。

 

一般的な解釈のような、本当は気に入らない事柄や出来事に対して、それを渋々許容することではありません。

 

人間関係においては、自他の内なる真の実相だけを認め、それ以外を認めないことと言えます。

 

そもそも、平安とそうでない状態の区別のできない人たちがほとんどだと思うので参考になるか分かりませんが、

 

赦しをきちんと実行できているとき、心には確かな平安があります。

 

もし平安が感じられていないならば、私たちは何かで選択を誤っていると断言できます。

 

ところで、誤った選択を何故するのかと言えば、何が自分にとって保護を差し出すものなのかについての知覚が逆さまになっているからです。

 

害を益と思い込み、幸を不幸と取り違えている状態とは、確かに心が混乱した状態であることを意味します。

なのでこの思考体系の中で考えられていることのすべてが、誤った前提のもとに展開されています。

 

私たちがこの混乱の中で用いるものの中で、最も退けるづらいと思うのが、義憤です。

 

彼はこうすべきだとか、自分はこんなに頑張っているのにとか色々ありますが、しかしどのような理由であれ、正当な怒りなど存在しない。

 

怒りの伴うところ、心は混乱しており、怯え、正気を欠いています。

 

正しさとは唯一、平安を伴うことにのみ当てはまるということを、私はたくさんの経験から幾度となく、繰り返し学びました。

 

自分が道を外れてしまっていると気づけたならいいが、そうでない場合が決して少なくないし、またそれが人々の間で称賛を受けていたりするものだから厄介です。

 

 

いくら年を取って良いも悪いも経験を重ねたところで、所詮人間は無に過ぎないのです。

 

経験を有効に活かすならば、ぜひ、自分はゼロであるという事実を証するような解釈を。

 

そしてあらゆる業を成すのが自分ではない、という最上級の謙虚さのための経験であったと振り返りたいものです。

 

いつも人の前に神を。

 

人と人の関わりは、確かな叡智が取りなすべきです。