計画を立てることは真理からの自己防衛
どうもこんにちは。
昨日のワークブックのレッスン135の中に、
自分ひとりで立てる計画とは、どれも防衛に他ならない
という内容の部分がありました。
lesson135,15 自分のために計画する心は未来の出来事を制御することに余念がない。自分で自分自身の蓄えを作らない限り、どこからかそれが与えられるとは考えない。時間は、未来に重点が置かれたものとなり、過去の出来事や以前に信じたことから得られる学びや経験によって制御されるべきものとなる。そうした心は、未来の方向性を決めるのに必要なことを過去がすでに教えてくれたという考えに基づいているため、現在を見落としてしまう。
おいおい、これじゃあ巷で言う成功法則とやらは、全部自我の防衛機構そのものじゃないか・・・。
なるほど、言われてみれば納得できます。
成功法則の中では、自分はこうなるべきだ、こうなりたい、という願望に向かって一直線に走る。それを実現するためにそれだけを考えて、余計なことはせず、まっしぐらです。
成功法則というと壮大な印象がありますが、たとえばこれは、道草をせずに目的のお店まで行って買い物をすることに似ていますね。目的があり、そのための手段を検討し、それ以外のことはしないという点では同じです。
この前提にあるのは、先程引用したように、自分がすでに求めるべき、手に入れるべきものを正確に理解していると思っているという考えです。
コースでは、そうした思い込みが過去と未来という思考に根ざしたものであるがゆえに、現在という唯一の時間を失わせていると言っています。
私も長期的な目標を立てようと色々考えていたところだったので、はっとさせられました。
完全に、現在に対して注意できなくなっていましたし、物事を赦しではなく裁きの感情で見ていたことにも、後になってから気づく始末。反省です。
しかし未来を制御するという技術は、日常生活のあらゆるところで役立つこともまた事実。
円滑な日常を送るためのスケジュール管理は、仕事や子育てに忙しい現代人にとっては必須。
会社を運営していくにあたっても、年度ごとの目標さえなければ、組織は力を発揮できないどころか、最悪会社自体が転覆し、結果従業員は船が沈む前に放り出されることになります。実際そのような会社はたくさんあるようです。
このレッスンの前半には、このようなことも書かれています。
lesson135.11. 癒やされた心は計画を立てない。自分のものではない叡智に耳を傾け、そこから受け取る計画を実行する。何がなされるべきか教えられるまで待ち、その後それを実行に移す。与えられた計画を成就できる状態でいようとする以外には、自分自身には頼らない。
ここで私たちは混乱するわけです。
計画しないのが正しい一方で、計画が明らかにわたしたちにとって有用な事実の間で、どうしていいのか分からなくなります。
個人的な意見ですが、人生の大枠を決めるものや、自分のあり方や価値観を決定するような計画、たとえば、いついつまでに結婚したいとか、自分は将来こうなっていたいとかというようなものについては、このコースの指摘が当てはまるものと考えます。
そして、日常的なToDo管理については当てはまらないとしたいところですが、ところが実は、コースの筆記者ヘレンに対してイエスは、どんなことでも聖霊に尋ねてから行うように指示を出していたそうです。
究極的には、やはり全面的に聖霊に頼る生き方をするようになっていくのが理想なのだと思います。
本当にひとつの心しかないのであれば、そしてそれが完全な叡智を備えた心なのであれば、一人の人間という分離思考を完全に手放して、その思考の外から(はじめのうちは外部からやってくるようにみえるが、そのうちそれが自分の中から現れるものだと分かるようになってくる)の意図に従うことだけが道理にかなうことです。
とにかくこれらの事柄についても、自分で実際に取り組んでいくしかなさそうです。
人は、自分で経験したものしか信用することはできないからです。
肝心なのは、その判断や計画の中にやすらぎを感じられているかどうかです。
心の平安が、唯一わたしたちが基準とできる正否の目盛りです。
しかしその目盛りさえ、時として新しくより精度の高い物に取り変わる時期が来るのだから、いつまでの今の価値基準を大事にしていてもいけないわけです。
話がそれましたが、何であれあなたが計画をたてるとき、その中に焦りや恐れを感じていないか、平安を感じることができているのかどうか、ここをひとつ判断基準にしていくと、いいのかもしれません。