kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

あなたに責任はない

私たちは生まれてこのかた、自分の体を主人公に、体が感じ、思い、考え、決断し、行動すると信じてきた。

 

だから自立した人間というものの条件として、おそらく多くの人が、

「人のせいにしない責任能力のある人物」

を、そのひとつにあげるだろう。

 

私たちが探求者として歩む極めて最初の段階で求められ、おそらく最後の最後までその課題と付き合わなければならないのは、知覚は知覚者の投影によって作り出されるということです。

 

つまり、一切の他責が根拠のないものだと認めなければならないということです。

奇跡講座の中でも、怒りは決して正当化できないことや、コースの学習自体を自分に決断能力があることを思い出すプロセスの一環としている箇所が頻繁に見られます。

 

しかし、だからといって私たちが知覚する全ての自我の責任があなたにあると言っているわけでもない。

 

もし自我についての責任があるのであれば、過ちは実在することになり、それは赦しの概念とは相いれないからです。

 

例えば私たちは、兄弟を通して自我を見る。

 

相手の体を知覚した時点で、それはもう自我を知覚したことと同じです。

 

するとその体から表現されることのあらゆるものに、その人の責任を見る。

 

良いことも、悪いことも、同様にその兄弟という原因により生じたものであり、肉体という象徴にその源が知覚されます。

 

しかし、自我に属するものの全てが実在するものではないのであれば、それらの責任は彼らにはないのです。

 

兄弟が何らかの病気であるように見えたり、

愛のない表現をしていたとき、

あるいは愚かさの中にいてそれにさえ気づいていないとき

「あなたには何の責任もない」

と心の中で相手に告げるといいでしょう。

 

これはもちろん自分自身に当てはめても結構だが、兄弟に積極的に当てはめることだけを考えたい。

 

なぜなら、私たちは兄弟を赦すことによってしか自分を赦すことができないからです。

 

これは赦しの鉄則、必ず守られるべき約束です。