兄弟が居なければ②
なぜ兄弟が必要なのかというと、結論から言えば、私たちに分離はないからです。
自分が己の罪悪感から赦されるために兄弟を赦さなければならないということは、逆を言えば、兄弟を罪悪感から解放しない限り自分が解放されることはないということになります。
なぜでしょう?
たとえばAという人物(これを皆さん自身だと仮定してみてほしい)が
Bを赦すという態度を取ったことを
形而上的権威を持つ第三者であるCが評価して(これは一般的にはこの世界のすべてを見ている神の立場であるとされる)、CがAを赦す。
という解釈が一般にはしやすいと思う。
しかし、そもそもAが罪悪感の重荷を背負っていたのはなぜだろう。絶対的存在であるCが評価を変えることがありえないならば、Aが何をしたとしてもAに対するCからの価値判断は決して変化しない(親が子をいつまでも愛し続けるように)。変化がありえるとすればAの自己に対する認識だけである。
つまりここで起こったことは、AはBに対する価値判断を変えたことでA自身についての自己認識を変化させたということであり、そこにCという絶対的存在は一切関与していない。
こうなると、A=Bという事実が浮かび上がる。
AはBであり、BはAである というきわめてシンプルな解。
だが誤解してはならないのが、A=主体、B=客体 という知覚は錯覚だということ。
AもBも、Xというひとつの包括的な心の違った側面であると理解してほしい。
私たちは自分の体を他の肉体よりも特別で価値あるものだと思っているが、そうした心の動きが、この事実を覆い隠してしまっている。
AもBも、この宇宙を現出させている一つの心から生じていて、奇跡講座で癒しの対象としている心とはこれである。
最初は誰もが肉体の中にとじこめられた心(魂)という幻想に赦しを適用するし、それはそれで必ず必要な過程であるとわたしは考える。
また、人間としての人生はこのレベルを通して経験されるし、キリストのヴィジョンさえも個としての経験に依存するとことが大きいのだからそれを否定することは出来ないと思っている。
けれども、兄弟と自分の関係性の追求、あるいはより深い赦しの理解というチャレンジをする場合は、この事実をはっきりと認識しなければならないと思う。
でなければ、私たちは兄弟を赦す意味や自分にとっての痛切な必要性も知覚することができずに、赦しとそれを語る聖霊に信を寄せることが出来ないからです。
さて最初の話に戻りましょう。
兄弟を赦さなければならないのは、それがそのまま自分自身に対する赦しだからです。
この世界には、私たちのあらゆる信念が投影されています。
それが自分と思える肉体に投影されているのか、あるいはそうでないのかの違いに過ぎません。
他人の信じられない狂気や出来事、グロテスクで醜悪な姿など、時には自分の属性として認めたくないものを外側に知覚すると思いますが、これこそが投影と分離のトリックだと理解したいですね。
それを知覚している以上、それはあなた自身の自分に対する信念の投影以外の何ものでもないのです。
もしそれを非難したい誘惑に負けそうなときは、同時に自分が肉体であると信じたいという誘惑にも屈しそうになっていることにも気づけるはずです。
あなたの肉体にも、わたしの肉体にも、この観点からのみ、正しく安全な方法でその無価値性を証明することができます。
肉体はそのひとかけらとて私たちの一部ではないからです。
そして聖霊の見方からすれば肉体は学習を補助する手段に過ぎず、極論を言えば絶対に必要なものでもないということも明らかです。
肉体が無であるのは、それが自我の投影というトリックを有効なものに見せるための象徴的な影に過ぎないからです。