kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

霊的な進歩と脱皮の話

どうもこんばんは。

 

私がこれまで奇跡講座を自分なりに懸命にやってきた中で、今日改めて感じたことをお話しします。

 

まず、これはどこでも同じように語られていることではあるが、学びとは螺旋階段を登るようなものに似ています。

 

ぐるぐると同じ課題に何度も出会い、それを繰り返しているうちに、ある時、自分が以前よりも上昇していることに気がつきます。

 

もう一つ。これが今日お話ししたかったことなのですが、それは、大きな停滞を経験したあと、爆発的な力で学びが加速するという事です。

 

私はこれまで、奇跡講座が前提としている「心」について確かに理解しつつ前進してきました。

 

心が知覚に現れる全てを投影しており、それは自分についての思考そのものである

という理解のことです。

 

これを実践する中で、いわゆるキリストの視覚を体験したこともあるし、自分としては順調に進んでいる感覚を持って生活していました。

 

ところがこの2年ほど、気がつかないうちにその重要な前提にあまり意識を向けることができていなかったのです。

 

もちろん常に学びの意欲はありましたよ。

 

ただ今思えば、その自分を決断を可能にする原因の立場に置くことにどうしても考えが及ばなかった。

 

しかし今日改めてその前提を学びなおす機会に恵まれたところ、これまでほったらかしにしていた重要な箇所であったが、以前よりもはるかに高度で妥協がなく、より深い理解を得られていることに気づきました。

 

正直に言って、自分を原因の立場へと置くこの場所に戻れる直前までは、真に霊的な歩みからはかなり隔たった場所にいたように思います。

 

一生懸命コースをやったり、読んだり、他の書物からインスピレーションを得たり、様々な努力をしていたにもかかわらず、人間関係はうまくいかず、一部は崩壊寸前で、もはやどうして良いのか全くわからないでいました。

 

抜け出した今、私はこの変化を生き物の脱皮と似たやうなものと思っています。

 

蛹や脱皮直前の状態とは、地下やみえないところにあって汚れている。

 

しかしそれは次なる段階への必要な潜伏、あるいは捨て去らなければならないものが表面化している時期なのかもしれません。

 

とにかく私のここ数日で体験した変化は、その脱皮によく似ている部分が多いと感じています。

 

もちろんこれからも、脱皮は続くでしょう。

 

脱皮する度に、古く使い勝手の悪いものは手放され、より純粋で確信的で、かつ優れたアイデアやインスピレーションに満たされるのだと思います。

 

その都度コースは明瞭で平坦なものに知覚され、私はそこからより深い意味を悟ることができそうです。

 

さて今回私がより深く学んだことといえば

 

想念は源から決して分離しない

 

という事です。

 

これを実践にしっかりと組み込むことで、確実に赦しが加速します。

 

しかしその事実を心がどこまで受け入れることができるかが、進歩のスピードを決定すると言えるでしょう。

 

思うに心の受容度を高めるためには、その受け入れを妨げている罪悪感を取り除くこと、つまりは赦しを行うことが最も良い方法だと実感しています。

 

だからコースは、私たちに赦し以外の何も求めていないのだと思います。