忘れてはならないが忘れやすいこと
あなたがいやだと思うことを、あなたの隣人にしてはならない。これがトーラーの全てである。 その他はその説明なのだ。行って学びなさい。
これはユダヤのラビ、ヒレルがトーラー(モーセ五書)について教えを乞われた際に口にしたことと言われています。
私たちは似たようなことを何処かで聞いたことがあります。
自分のしてほしいことをして、して欲しくないことは他人にしてはなりません
確か私は小学生の頃、道徳の授業でこんなことを習ったような記憶があります。
しかし疑問に思いませんか?
自分のして欲しいことがそのまま他人の求めているものだとは限らないことは、当時の私でもすぐに気がつきました。
A君は野球をするのが好きですが、Eちゃんはスポーツが苦手で手芸をするのが何よりの楽しみです。
また個人が要求するものは時と場合によりさらに細かく分かれますから、個人同士の求めているものの違いはさらに複雑です。
そもそも、人間とはついつい自分の物差しで他者をはかるもの。
この性により、私たちは他人を自分のように見ることは得意なのです。
しかし、そのやり方がマズイのは誰もがご承知の通りです。
となれば、上記の言葉が賢者により導き出された正しい言葉なのであれば、間違っているのはそれに対する解釈だということになります。
近頃になり、この問題について私個人として何となく霧が晴れたような気がしたので、少し説明していきます。
まず、私たちは自分が何を求めているかについて形而上的な見方をしなければなりません。
つまり具体的な要求ではなく、潜在的、根本的、そして抽象的に何を求めているのかに焦点を当てることが必要です。
人間とは不足を動機、つまりエネルギーとして活動する生き物ですので、まず明確にわかることは、私たちは満足を求めているということでしょう。
では次に、何に不足を感じているかという問題です。
色々あるように思えますが、
時空間のなかでそれぞれ散り散りになって、地べたを這いつくばって動き、自分は常に外側からの影響に左右されるちっぽけで哀れで儚い存在感としての肉体
に、抗いがたい不足を覚えていると言えます。
人間としての独特の楽しみも、苦しみも、怖れも、ぼーっとした感覚も、どこへ向かったら良いか見失った状態も、とにかく人間活動の全てがこの肉体の信念により生起されます。
人々は肉体に不満足な割には肉体というアイデンティティをより強める手段でそれを満たそうとするから、延々と本当の満足を認識できないでいます。
しかしコースの中でイエスは、別の道があることを私たちに示しています。
そして同時に、あなたは神以外では決して満足できないとも随所で強調しています。
つまり私たちは、神によって本当の満足を知るのです。
私たちに必要なのは、住みやすい家や退屈な日常を楽しませてくれる遊具や舌触りの優れた食事や円滑で優れた人間関係などではなく、神という唯一の光輝なのです。
ここで話が最初に戻ります。
して欲しくないこととは、神に反することです。
そしてして欲しいこととは、まさに自分が真に望んでいること。
つまりは神という穢れなき光輝であるということです。
赦しとはつまりはこういうことです。
私たちが普段から他人や自分に無意識に与えている肉体という罪の鎖を捨てて、神の輝きをその人に認めることで、私たちは次第に自分の中の神の声に近づくことができるのです。
何と単純なのでしょう。
これを素直に心根に下ろして実行すれば一瞬であなたの心は軽くなることは確実です。
そして残念なことに、このことの何と忘れやすいことでしょう。
だから、私たちは繰り返し学び、行い、それを自分の行住座臥の吐息にまでしていくのです。
だからまずは、あなたが本当に望んでいる究極について、思いを致してみましょう。
それが本当の自己変革のはじまりだと、私は考えます。