kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

お金についての捉え方

つい昨日、全農林の全国集会で講演をする機会をいただきました。

100人くらいの前で、仕事で取り組んでいる農福連携についての話です。

他にも講師の方がいて、私の順番は最後でした。

 

さて順番がきましたところ、どうやら予め送っておいたはずのデータが現場のpcにない。

 

仕方がないのでパワポは使わずに、代わりに私自身がスクリーンのある位置で立って話をすることになりました。

 

直会社でやっていることなどあまり興味がなかったので適当なことをいってごまかしましたが、

 

障害者たる彼らの中に光を見て、それに愛をおぼえた

 

などと、カモメのジョナサンの大好きなフレーズなどを使って個人的な思想を炸裂させました。

 

結果、会場からは一番の拍手をいただきました。

 

昨日は人生の中でもとてもいい日になりました。

 

 

お金についての話ですが、私たちはそいつから日常的にかなりの制約を受けています。

 

お金は人生そのものと言っても過言ではないくらい、日常のあらゆる物事を支配しています。

 

だから私たちはより多くの稼ぎを求めて、スキルを身に付けたり勉強したり、体に鞭を打ってまで働きます。

 

嫌なこともお金のために我慢するし、

お金を稼がなくちゃならないから、

自分の本心を隠したり、

人を脅したり騙したり、

時には必要なときに足らないから人から借りることもあります。

ローンもそうですね。

 

正直大人になって、お金がこんなに自分を苦しめるものだとは思いませんでした。

社会人になってやっとわかりまた。

お金で人は簡単に結び付いたり離れたりします。

 

ある程度余裕が出てきたと思ったら、思いがけない出費が重なり、とたんに余裕がなくなりました。

 

自転車操業までは落ちませんが、それでもいい気持ちがしないものです。

 

ネットでお金について検索すると、いかにそれを賢く自分の味方につけて、人生を割合有利に進めることができるかについて様々な考え方の記事が並んでいる。

 

時には、もしブッダが○○だったら、的なifから始める演繹的なものもありました。

 

ブッダは元々中道を説いた方です。この世界の何事も、良いものでも悪いものでもなくそれらは無である、と見るのが中道の概念です。

きっとその記事を書いたり見たりしている人たちはお金が無であるとは見てないから、この記事をブッダが見たら、もしかしたら深いため息をつくかもしれません。

 

 

 

ではお金は何のためにあるのか?

 

それをはっきりさせるのが、やはり例のごとく、「奇跡講座」です。

 

お金についてイエスは言います。

 

進歩したセラピストにさえ、ここに居る限りは、いくらかの地上的な必要というものがある。もし彼に金銭が必要なら、それは与えられる。支払いとしてではなく、彼がその計画にさらに役立つよう助けるためである。金銭は悪ではない。それは無である。しかし、ここに居る者は誰でも、まったく幻想をもたずに生きることはできない。なぜなら、彼はまだこれから、最後の幻想があらゆるところであらゆる者に受け入れられるように、尽力しなければならないからである。彼には、この一つの目的における強力な役割があり、彼はそのために来たのである。彼は、このためだけに、ここにとどまる。そして、彼がとどまっている間は、とどまるのに必要なものが彼に与えられるだろう。

 

これは教師のためのマニュアルの一節を取り出したものなので、言葉の意味が分からないところもあるかもしれません。

それでも言いたいことの意味は伝わると思います。

 

お金が何のために使われるべきか、ここでははっきりと述べられています。

 

お金が幸せや満足をもたらすためのツールだと考えるから、それがないと満たされないと思って苦しくなります。

 

ところがお金が、より多くの人たちの役に立つためのものなのであれば、それが多かれ少なかれ、その範囲内でやりくりすれば良くて、決してあたふたすることはない。

 

そして個人的に、お金は、自分のためにも豊かに使ってあげるべきだと思います。

 

他人と自分が等価なのだとしたら、一番自分の近くに居るこの存在に、真っ先に奉仕してもいいんじゃないだろうか?

 

自分にお金を使うことに罪悪感を持つ人も居るでしょう。

 

私がそうです。

 

でも、もっともっと、自分のことを愛してもいいんじゃないかって思います。

 

まるで、心を奪われた女性になら魂を差し出すことも厭わない男のように。

 

 

 

 

この議論には正解が無いようにも思えます。しかし少なくとも、お金とは目的に奉仕するための手段であり、しかも物質的な安心感や満足から卒業するための補助教材であると見なしてあげた方が、幸せに生きられるかもしれません。