kamome-1991

生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

肉体から"逃げる"

確か20歳くらいの頃、時間とは存在しないものだと悟ったことがありました。

 

・目に見える物事が真理とは正反対のことを私たちに教えていること

・そして、私たちの普段信じている諸々の当たり前によって真理がいかに隠されているか

 

その目覚めた数秒のことを思い出すと、上記のことをよく実感できます。

 

真理の法則が今でも生き生きと力強く働いているのに、私たちは普段からそれを用いることも、感じることもできないのはなんとももどかしい。

 

みなさんからは笑われるかもしれないが、私はその法則を用い、その法則と共に生きていきたいと日々願い、そのための練習をしています。

 

だからなのでしょう、普通の人とはちょっと違った道が用意されていると思っています。

 

目に見えてやっていることは大多数のそれとあまり変わらないかも知れないが、人生に求めている結果と過程のどちらもが大きく違っているから、人生そのものの味わい方といいますか、感じ方や、報酬として何を受け入れるかなど、とにかく人生の中身がおよそ大多数の方々とは異なっています。

 

どこでもいい、何気ない生活の中のワンシーン。

 

たとえばその瞬間の中で、既存の法則を通り過ぎ、真に実在する法則によく注意して、耳を澄ませ、目を凝らし、心のすべてを差し向けて集中することがあるでしょうか。

 

そしてそれを純粋な喜びとして味わっている人など、見つけようとしてもそう見つかるものでもありません。

 

なぜなら、人間としたらごく当たり前の考え方の正反対を行くわけですし、こんなに真剣にやっているはずの私でさえ、それを維持し続けることが困難だからです。

 

そんなことをしていると、次第に、人間という経験そのものが邪魔なのだということが肌身でわかってきます。

 

肉体と自己の同一視がいかに深刻な障害であるか、またそれが差し出してくるあらゆる快楽も、結局は苦しみの別の顔に過ぎないことを理解し始めるのです。

 

だから探求者は、刻々とやってくる“肉体”へのいざないによく注意していなければなりません。

 

この種の注意と実行は、時に我が身の破滅さえ感じさせるものです。

 

様々な人との繋がりを"一旦"否定しなければならないし、真理の道とは、基本的に個人的な利益を諦めることや、自分を滅した奉仕をすることによって歩まれるからです。

 

しかし、私たちは肉体という苦しみを根こそぎにしようとしているわけです。

 

苦しみから逃れ、自由になろうとしているのです。

 

しっかりと原因にアプローチして、確実な結果のために忍耐しなければならないのは、その報酬の大きさを考えれば、大した苦労でもないように思えます。