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生きることを問い続けるすべての同志たちに捧ぐ

コースは不完全か?

コースの悪口ではありません。

 

あれはあれで、高度に専門的で普遍的な役割を果たしているものです。

 

同じものを書こうったって、とてもできるものじゃない。

 

少なくとも人間には無理な代物だと思っています。

 

これは弱点とは決して言えるものではないが、しかしコースにはないが私たちが求めているものがある。

 

私たちは成熟していくために、特定の具体的なステップを経る必要があります。

 

コースは唯一、そのステップについての言及に欠けます。

 

こんなときどうすればいいのか、どう考えれば良いのか、コースはその辺りのことには一切触れておりません。

 

だから私を含めた学習者たちは、そこでモヤモヤしたりします。

 

痒いところに手下届かないのです。

 

ではコースは不完全か?

 

私たちのニーズから見ればその通りでしょう。

 

しかしハッキリと言えば、コースは目的に対して完璧なものです。

 

なぜならコースは、具体的な物事に言及することにより、それを実在のものとさせないからです。

 

テキストにはこのようにあります。

 

愛は恐れを見過ごすことしかできず、恐れは愛を見ずにいることしかできない。

 

あなたのささやかな役割は、聖霊に犠牲という考えを丸ごと与えてしまうことだけである。

 

復習となりますが、赦しとは、幻想を通り過ぎて聖霊の目と耳、心(これは比喩です)と繋がることです。

 

つまり罪悪にまつわるすべての幻想を一切考慮しない、ということです。

 

私は今日、ある人間関係で思い悩んでいました。

 

しかし聖霊にそれを預けようとしたとたんに、心の中からその問題が一瞬にして消え去ってしまったのでした。

 

跡形もなく、消滅してしまったのです。

 

問題を実在させることは、罪を座視することに等しい。

 

つまり消えてしまったということは、問題という罪悪の象徴を見ていては、赦しという真の解決はありませんよ、ということだったと思っています。

 

面白いですね。

 

こういったことがあるから、私はコースから離れられません。

 

「罪悪の使者たちは放っておきなさい、彼らは嘘しかつかないのだから、あなたが耳を貸す価値はない。」

 

と、聖霊に言われているように思います。

 

具体的なニーズとは、不足を暗示するものです。

 

だからそれに答えてしまっては、コースは意味の大部分を大きく失うことになるでしょう。

『カモメのジョナサン』より学ぶ 1

ブログの背景が物語るように、私はカモメのジョナサンという本が大好きです。

 

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この本を最初に手に取ったのはもう10年以上も前。高校二年の頃です。

 

私の通った高校には朝の読書という時間が15分ほどありました。今思うと素晴らしい時間です。

 

当時の私は本などほとんど読まず、教室の後ろに小汚く積まれた面白おかしい本があってそれをパラパラめくるだけだった。

 

ところがあるときから、いろいろなことでこのままではいけないと思うようになり、半端に続けていた部活を辞め、勉強に精を出すようになり、服装も流行に流されないようになりました。

 

読書もその自己改革の一部でした。

 

まずは読書に慣れることからだと思い立って本屋さんで買ったのが、「星の王子さま」とこの「かもめのジョナサン」でした。

選んだ理由は、薄くて読みやすそうだったからです。

 

ここから私の読書好きが始まって、当時流行った小説や、本屋で目についたわりと目立たないものをたくさん読みました。

授業中でさえ、教科書に隠して読んでいたこともありました。

ただでさえ高校では友だちが少なく、休み時間の乱痴気騒ぎに参加することもいつでもできたが、それよりも本のほうが面白く感じたから、「あいつは本ばかり読んで気取ったやつだ」などと陰口をたたかれるのを聞いたこともありました。

 

 

ところで、ジョナサンの話はどこへ?

 

実は最初に読んだとき、私はこの本をかもめをモチーフにした単なる寓話、しかも半ば夢想的な空想読み物だとしか思いませんでした。

 

だからあるお金に困ったときに、なんとも思わず売ってしまったのでした。

 

 

ジョナサンの魅力に取りつかれたのは、初めて手に取ったときから5年位後だったでしょうか。

 

高校卒業以来、真理の探求にすべてを懸けていました。

 

その中で「奇跡講座」に出会い、ゲイリー・R・レナードの「神の使者」でコースを深く理解するきっかけを得ました。

 

そしてある時、父の書架に“それ”があるとこに気づいた。

 

いや、あることは分かっていたが、あえてそれに手を伸ばそうとは思わなかったというのが正しい。

 

開くと、冒頭にこんな一節がある。

 

われらすべての心に棲む

かもめのジョナサン

 

 

この瞬間、私はこの本に流れる強烈な電流、もとい魂を感じずには居れなかった。

 

なにかこう、自分の中にある偉大な精神とこのフレーズが、ピッタリと符合したような感覚だったことを覚えている。

 

 

のめり込むようにして読み始めた。

 

すると以前にはわからなかったことが、とてもよく分かるではないか。

 

そして、真理を求めて練習していた自分と、ジョナサンの生きる姿がまるで同じ事のように感じられた。

 

そしてあろうことか、ジョナサンの生き方が、自分の歩むべき道とさえ思えた。

 

「これは単なる寓話ではない。それどころか、この中で語られている一言一句が、

俺たちの生きているリアルにそっくりそのまま当てはまるじゃないか!」

 

私はその衝撃に打ち震え、ジョナサンのような純粋な生き方をしたいと心から思い、感動に泣きました。

 

 

それ以来、ジョナサンは私の中でもっとも力強い存在感を持っている。

自分の理想の象徴でもあり、座右の書であり、いつか時が来て自分の体が静かに横たえられるとき、胸にはこの本が置かれていてほしい。

 

そう思って、早くも5年以上が経過している。

 

この思いは本物だと思ってもいいだろう。

 

そしてそう思わせるこの本こそ、まさに本物である。

 

これから何回に渡るかは不明だが、

 

かもめのジョナサン』よりまなぶ  シリーズを上げていきます。

 

少しでも心ある人たちに、このジョナサンの魂が宿ることを願っています。

お金についての捉え方

つい昨日、全農林の全国集会で講演をする機会をいただきました。

100人くらいの前で、仕事で取り組んでいる農福連携についての話です。

他にも講師の方がいて、私の順番は最後でした。

 

さて順番がきましたところ、どうやら予め送っておいたはずのデータが現場のpcにない。

 

仕方がないのでパワポは使わずに、代わりに私自身がスクリーンのある位置で立って話をすることになりました。

 

直会社でやっていることなどあまり興味がなかったので適当なことをいってごまかしましたが、

 

障害者たる彼らの中に光を見て、それに愛をおぼえた

 

などと、カモメのジョナサンの大好きなフレーズなどを使って個人的な思想を炸裂させました。

 

結果、会場からは一番の拍手をいただきました。

 

昨日は人生の中でもとてもいい日になりました。

 

 

お金についての話ですが、私たちはそいつから日常的にかなりの制約を受けています。

 

お金は人生そのものと言っても過言ではないくらい、日常のあらゆる物事を支配しています。

 

だから私たちはより多くの稼ぎを求めて、スキルを身に付けたり勉強したり、体に鞭を打ってまで働きます。

 

嫌なこともお金のために我慢するし、

お金を稼がなくちゃならないから、

自分の本心を隠したり、

人を脅したり騙したり、

時には必要なときに足らないから人から借りることもあります。

ローンもそうですね。

 

正直大人になって、お金がこんなに自分を苦しめるものだとは思いませんでした。

社会人になってやっとわかりまた。

お金で人は簡単に結び付いたり離れたりします。

 

ある程度余裕が出てきたと思ったら、思いがけない出費が重なり、とたんに余裕がなくなりました。

 

自転車操業までは落ちませんが、それでもいい気持ちがしないものです。

 

ネットでお金について検索すると、いかにそれを賢く自分の味方につけて、人生を割合有利に進めることができるかについて様々な考え方の記事が並んでいる。

 

時には、もしブッダが○○だったら、的なifから始める演繹的なものもありました。

 

ブッダは元々中道を説いた方です。この世界の何事も、良いものでも悪いものでもなくそれらは無である、と見るのが中道の概念です。

きっとその記事を書いたり見たりしている人たちはお金が無であるとは見てないから、この記事をブッダが見たら、もしかしたら深いため息をつくかもしれません。

 

 

 

ではお金は何のためにあるのか?

 

それをはっきりさせるのが、やはり例のごとく、「奇跡講座」です。

 

お金についてイエスは言います。

 

進歩したセラピストにさえ、ここに居る限りは、いくらかの地上的な必要というものがある。もし彼に金銭が必要なら、それは与えられる。支払いとしてではなく、彼がその計画にさらに役立つよう助けるためである。金銭は悪ではない。それは無である。しかし、ここに居る者は誰でも、まったく幻想をもたずに生きることはできない。なぜなら、彼はまだこれから、最後の幻想があらゆるところであらゆる者に受け入れられるように、尽力しなければならないからである。彼には、この一つの目的における強力な役割があり、彼はそのために来たのである。彼は、このためだけに、ここにとどまる。そして、彼がとどまっている間は、とどまるのに必要なものが彼に与えられるだろう。

 

これは教師のためのマニュアルの一節を取り出したものなので、言葉の意味が分からないところもあるかもしれません。

それでも言いたいことの意味は伝わると思います。

 

お金が何のために使われるべきか、ここでははっきりと述べられています。

 

お金が幸せや満足をもたらすためのツールだと考えるから、それがないと満たされないと思って苦しくなります。

 

ところがお金が、より多くの人たちの役に立つためのものなのであれば、それが多かれ少なかれ、その範囲内でやりくりすれば良くて、決してあたふたすることはない。

 

そして個人的に、お金は、自分のためにも豊かに使ってあげるべきだと思います。

 

他人と自分が等価なのだとしたら、一番自分の近くに居るこの存在に、真っ先に奉仕してもいいんじゃないだろうか?

 

自分にお金を使うことに罪悪感を持つ人も居るでしょう。

 

私がそうです。

 

でも、もっともっと、自分のことを愛してもいいんじゃないかって思います。

 

まるで、心を奪われた女性になら魂を差し出すことも厭わない男のように。

 

 

 

 

この議論には正解が無いようにも思えます。しかし少なくとも、お金とは目的に奉仕するための手段であり、しかも物質的な安心感や満足から卒業するための補助教材であると見なしてあげた方が、幸せに生きられるかもしれません。

この世界では、愛でさえ完全ではない

キリストは愛を説きました。

 

それだけをしなさいと言いました。

 

しかしそれが万能だとは言いませんでした。

 

 

私たちは、どのような場面であっても愛こそが唯一の答えだと聞かされて生きてきた。

 

直接そのように教わったことがなくとも、なんとなく、社会の風潮として、あるいは知的階級の高い人たちの間での不文律のようなものとして、それは語られてきた。

 

そしてコースでも、赦しこそが唯一の答えであり、それは神の声の代弁者の意思だとも説明されている。

 

それに間違いはないでしょう。これまでさんざん赦しの訓練をしてきた身としては、赦しの効力を疑いそうになる誘惑は多かったが、それでもやはり、赦しに身を委ねるしかないと思っている。

 

ところがです。

 

私は赦しさえしていれば、この世界でうまくいきていくことができるとも信じていました。

 

赦しという心の変化は肉体のレベルにもしっかりと反映される。

 

そこから、きちんと赦してさえいれば自分のかかわる関係が穏やかに進行すると考えていました。

 

しかし今、赦しているにもかかわらず、それが相手に伝わることもなく、状況がどんどん悪化しているように感じていることに戸惑いを覚えていました。

 

このことから、自分は赦せていないんじゃないかと考えることもありました。

 

ですがこの世界の中においては、本質は完全な愛でさえ不完全なものです。

 

愛自体は完全であるが、それが完全な形で反映されることはないし、むしろそれが全く表に現れないことさえある。

 

2000年前、イエスは多くの人々の怒りをかい、磔刑という象徴的な攻撃の出来事を呼び寄せた。

 

エスの愛を未熟だったと言える人はいないでしょう。

 

全人類の兄たる彼の愛が本物だったからそこ、「奇跡講座」は現代に与えられたのだと考えます。

 

その本物の愛でさえ、この世界では不完全で、時には流血さえもたらすのです。

 

だから私は、目に見える結果に動じないようにしようと思いました。

 

兄弟の本当の姿を見れば、つまり彼らの光という本性をよく見つめさえすれば、意地悪な考えは浮かばないどころか、好意を通り越した尊敬の念さえ湧き上がってくるのだから、そのことだけをひたむきに思うように、そう改めて思った次第です。

なにもする必要がない

ここに戻ってくるのはいつぶりだろうか

 

私はすっかりこの基本を欠いていたように思う

 

何もする必要がない

 

これはテキストでもワークでも出てくること。

 

つまり何かをするのは体だが、何もする必要がないということは自分を体から解放することだった。

 

それは、自らの完璧さという真実を全面的に肯定するということに他ならない。

 

その中心から、私が何をするかについての指示が与えられる。

 

自分がすべきことを考えているととても疲れる。

 

しかし何もする必要がないことを覚えていながらにいると、どんな判断をするにも心が軽い。

 

そうすると私は、思うがままに世界を歩き、直感のままに人生を味わうことができる。

 

なんと良いことか。

 

なんと自然なことか。

 

私はそこではじめて自由となる。

 

心の平安を得て、常に安らかであることができる。

 

余裕をもって、人生を歩むことができる。

 

なにも焦ってキャリアを作ることもない。

 

人からの意見に左右されることもない。

 

自分の未熟さに劣等感を覚えて苦しむこともない。

 

コースはなんて素敵なんでしょう。

 

 

半端なスピリチュアリズムの害

ふと昔のことを思い出しました。

 

私がスピリチュアリズムに傾倒し出した若かりし頃のことです。

 

当時はレイキとか、チャクラとか、そんなことを師匠たる社長婦人より直接手解きを受ける身にありました。

毎朝出社前に、当時勤めていた会社の社長夫婦と一緒に瞑想をして、朝御飯を食べてからの出勤です。

仕事中も、婦人の用に付き合わされてちょくちょく外出していました。

 

周りの職場の先輩方がそれを見てどう思っていたのか、当時はまったく分かりませんでした。

 

なぜなら、自分が特別だと思っていたから、そんな目先のことしか見えないし考えられない人間たちのことなど、軽蔑していたからです。

 

やれ、あの人はエネルギーが強いとか、波動とか、あなたは何々星雲の何人とか何とか、、色々あったなー。

 

自分にとって都合のいい出来事を引き寄せようとしたり

 

内観療法で素晴らしい気付きの体験をしたことで調子にのり、すべては愛だ、とかなんとか得意気なことを言って周囲を唖然とさせたり

 

すぐに真理をわかった気になって人に意見してみたり

 

本当に、いろんな愚を犯してきたなと振り返ります。

 

結局のところ当時の私は、自分の体が特別なものだと思いたかったんですね。

 

霊的に優秀でありたかったのです。

 

その頃は特別若かったこともありますが、そんなとき、世の中の大多数の人たちが信用している道徳が自分の遥か下に見えるのです。

 

しかしこれらの傾向は、当時の私のみならず、現在あるスピリチュアリズムの傾向としてもはっきりと認められるものではないでしょうか?

 

何かを感じた、とか、宇宙と繋がる、とか言っている前に、もっと地に足をつけ、自分の生きている世界に真剣に関わるべきだと、自分への戒めの意味も込めて強くそう思います。

 

そんなことをしているくらいなら、全国に散らばる倫理法人会の[万人幸福の栞]を、なにも考えずに実践した方が遥かに良い。

 

霊的なことにまったく関心がなくとも、いつも落ち着いて朗らかな人から学ぶ方が、心に実るものに天地の差が生まれるでしょう。

 

そんなことに気づき始めたからこそ、私はニューエイジ的な考え方の一切を捨て、コースの学習者となったのです。

 

しかし学習者となったからといって、その問題と縁が切れたわけではなく、新たな特別性の魅力に取りつかれた時期がありました。

 

 

誰にだって自分がその時何を学ぶのかを選ぶ自由があり、好きなことをすればいいとは思います。

 

けれども、誤ったスピリチュアリズムが世間一般の道徳倫理に劣るという事実に変わりはありません。そんなものは自分を却って傷付けるだけでしょう。

 

私たちは、どこにでも居る普通の人間です。

 

スピリチュアリズムは、そんなありきたりな日常を特別なものに変えてくれます。

 

しかしながら、それでも、私たちは普通の人間だということを忘れてはなりません。

 

あなたの体も、私の体も、共に同じものであり、それらは当人のものというわけでもなく、だからと言って誰のものでもない、無なのです。

 

真理の探究者ないしコースの学習者としてあるならば、スピリチュアリズムの落とし穴に気づき、特別性という願望は通りすぎましょう。

 

結局体にフォーカスしている○○ヒーリングなどは、銭湯にある足つぼ健康法の延長でしかないことに一刻も早く気づくべきです。

 

先日私はタロットをあてにしましたが、なんにしてもこの世界の物事はみな、それを適切な手段として使用すれば私たちを害することはないのです。

 

つまり、足つぼ健康法は体を健康で快適なものに保つための手段なのに、それを霊的なものにしてしまうことは誤りだ、ということを言っています。

 

言っている意味がわかるでしょうか?

 

聞く耳のある人は聞いてください。

 

これは当時の私に聞かせてあげたかったことです。

前世からの知恵

これまで表立った活動を控えてきましたが、頃合いかと思い動き出した矢先。

 

30代を前にしてそろそろ自分のキャリアも真剣に考えなければならない時分なので、今後どのように自分の人生の舵をきっていこうか、考える事が多くなりました。

 

とりあえず自分にできることとして、会社では自然農法を実践し、様々な方からの驚きと感激の声をいただくこととなった。

 

12月には全国的な自然環境に関する報告会で講師を依頼されました。

 

いっちょ前に講師料なんてもらう立場になって急に出世したような気分になって、あまり調子に乗らないように自分でも注意しています。

 

 

しかし私が本来やりたいこととといえば、やはり『奇跡講座』の教えを誰かと分かち合うことであり、学ぶことです。

 

ということで先日ジモティーで共に学習する仲間を募ったところ、早速数名の方が声をかけてくださりました。

 

 

今日は市内のイベントで、会社のブースで自然栽培の野菜を売っていました。

 

健康に関連したブースが並び、その中にはスピリチュアルな癒やしのための店もありました。

 

自分の今後のことを考えるにあたり、過去世のことを考える必要を感じていたところ、ちょうど過去からのメッセージを受け取ることのできるカード?のようなものを使っている方がいたので、ひとつやっていただきました。

 

その結果、

wisdom  知恵

このカードは、あなたが前世からの素晴らしい知恵や知識を持っており、今それが再び姿を表そうとしていることを示しています。自分のことを特に賢いと思ったことはないかもしれませんが、あなたは重要な教えと情報を手に入れているのです。今それが再び蘇れば、あなただけでなく他人の役にも立つでしょう。

このカードは、学校へ再入学したり、何らかの継続教育を受けるのに最適なタイミングであることを示しています。これは、あなたのキャリアの道が変わりつつあるサインかもしれません。再び現れようとしている知識が、もっと意味のある仕事へとあなたを導いてくれるでしょう。このカードは、自分自身を信じるようにと言っています。あなたは、本当の興味と情熱を感じるものを仕事にするだけの力を持っているのです。

 

というのが出てきました。

 

最初から最後まで、本当に今の自分の状態に当てはまることに驚きました。

疑い確かめることは大事なことだと思っているので試しに他のページを覗いてみましたが(くだらない占いなどは、誰にでも当てはまる普遍的なことを書いていて、どれがあたってもそれが自分のことを言い当てているように感じるものがあります)、それは自分にピンとくるものではありませんでした。

きちんと自分に合ったメッセージが与えられていることを確信しました。

 

最後のセンテンスが特に、不安がってなかなか前に進めない自分を後押ししてくれているように感じた。

 

あなたは、本当の興味と情熱を感じるものを仕事にするだけの力を持っているのです。

 

 

自然栽培ももちろん興味があってやっていることですが、自分の中での農業は、たとえば必要な時に裏の畑からちょこっと野菜を取ってくるような、生活の中に当たり前にあるものの中の一部以上のものとはみなしていない。

 

作物をどうマネタイズするかなどは本来興味関心の範疇にないので、ひとつの障害福祉施設の中で自然栽培を行うモデルが完成した時点で、もう自分のすることはないと考えています。

 

農業で自営なんてのもありえないと思っています。

 

だって疲れて大変だし、これ以上農家が増えても意味が無いから。

 

本当はずっと、奇跡講座の内容や普遍的な愛と赦しについて語っていたい。

 

自分が気づいたことを人々と分かち合い、彼らの歩みを助けてあげたい。

 

それで生活できたらどれだけ幸福か、ほんとうにしばしば考えています。

 

私の霊的な母や兄も、同じことを生業としていました。

 

同じ血の流れる自分もいつかはと、密かな願いはすこし実現に近づいたような気がします。