半端なスピリチュアリズムの害
ふと昔のことを思い出しました。
私がスピリチュアリズムに傾倒し出した若かりし頃のことです。
当時はレイキとか、チャクラとか、そんなことを師匠たる社長婦人より直接手解きを受ける身にありました。
毎朝出社前に、当時勤めていた会社の社長夫婦と一緒に瞑想をして、朝御飯を食べてからの出勤です。
仕事中も、婦人の用に付き合わされてちょくちょく外出していました。
周りの職場の先輩方がそれを見てどう思っていたのか、当時はまったく分かりませんでした。
なぜなら、自分が特別だと思っていたから、そんな目先のことしか見えないし考えられない人間たちのことなど、軽蔑していたからです。
やれ、あの人はエネルギーが強いとか、波動とか、あなたは何々星雲の何人とか何とか、、色々あったなー。
自分にとって都合のいい出来事を引き寄せようとしたり
内観療法で素晴らしい気付きの体験をしたことで調子にのり、すべては愛だ、とかなんとか得意気なことを言って周囲を唖然とさせたり
すぐに真理をわかった気になって人に意見してみたり
本当に、いろんな愚を犯してきたなと振り返ります。
結局のところ当時の私は、自分の体が特別なものだと思いたかったんですね。
霊的に優秀でありたかったのです。
その頃は特別若かったこともありますが、そんなとき、世の中の大多数の人たちが信用している道徳が自分の遥か下に見えるのです。
しかしこれらの傾向は、当時の私のみならず、現在あるスピリチュアリズムの傾向としてもはっきりと認められるものではないでしょうか?
何かを感じた、とか、宇宙と繋がる、とか言っている前に、もっと地に足をつけ、自分の生きている世界に真剣に関わるべきだと、自分への戒めの意味も込めて強くそう思います。
そんなことをしているくらいなら、全国に散らばる倫理法人会の[万人幸福の栞]を、なにも考えずに実践した方が遥かに良い。
霊的なことにまったく関心がなくとも、いつも落ち着いて朗らかな人から学ぶ方が、心に実るものに天地の差が生まれるでしょう。
そんなことに気づき始めたからこそ、私はニューエイジ的な考え方の一切を捨て、コースの学習者となったのです。
しかし学習者となったからといって、その問題と縁が切れたわけではなく、新たな特別性の魅力に取りつかれた時期がありました。
誰にだって自分がその時何を学ぶのかを選ぶ自由があり、好きなことをすればいいとは思います。
けれども、誤ったスピリチュアリズムが世間一般の道徳倫理に劣るという事実に変わりはありません。そんなものは自分を却って傷付けるだけでしょう。
私たちは、どこにでも居る普通の人間です。
スピリチュアリズムは、そんなありきたりな日常を特別なものに変えてくれます。
しかしながら、それでも、私たちは普通の人間だということを忘れてはなりません。
あなたの体も、私の体も、共に同じものであり、それらは当人のものというわけでもなく、だからと言って誰のものでもない、無なのです。
真理の探究者ないしコースの学習者としてあるならば、スピリチュアリズムの落とし穴に気づき、特別性という願望は通りすぎましょう。
結局体にフォーカスしている○○ヒーリングなどは、銭湯にある足つぼ健康法の延長でしかないことに一刻も早く気づくべきです。
先日私はタロットをあてにしましたが、なんにしてもこの世界の物事はみな、それを適切な手段として使用すれば私たちを害することはないのです。
つまり、足つぼ健康法は体を健康で快適なものに保つための手段なのに、それを霊的なものにしてしまうことは誤りだ、ということを言っています。
言っている意味がわかるでしょうか?
聞く耳のある人は聞いてください。
これは当時の私に聞かせてあげたかったことです。